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平岡 和徳(帝京高校 東京都)高校サッカーヒーロー列伝
総評
小柄な体躯を活かした俊敏なフットワークと抜群のテクニック、左足から放たれる高精度のパスでピッチを支配した名門・帝京高校の主将。中学卒業時に「15歳の決断」で故郷・熊本を離れて単身越境入学し、名将・古沼貞雄監督のもとでカナリア軍団の黄金期を牽引した。
高校2年時の1982年に夏のインターハイで全国制覇を果たすと、最上級生となった1983年度には主将に就任。第62回全国高校選手権では「清水東三羽烏」擁する優勝候補筆頭の清水東高校を決勝で1-0で破り、全国制覇(日本一)を達成。自らの左足クロスで前田治の決勝ゴールをアシストし、大会優秀選手および日本高校選抜に選出された。
筑波大学卒業後は父との約束を守り指導者の道へ進み、熊本県立大津高校を全国準優勝や50名以上のJリーガーを輩出する強豪へと育て上げた名将。その類いまれな人間教育と情熱の原点は、帝京で日本一を掴み取った高校時代の鍛錬にある。
所属チーム
帝京高等学校
生年月日
1965年7月27日
サイズ(身長・体重)
168cm / 62kg
ポジション
MF
出身チーム
- 3種:松橋町立松橋中学校サッカー部(現・宇城市立松橋中学校 / 熊本県)
- 4種:松橋サッカースポーツ少年団(松橋町立松橋小学校 / 熊本県)
出場大会
高校
高校サッカー選手権
- 1年時(1981年度・第60回):東京都A予選 優勝、全国大会 ベスト8(準々決勝敗退 ※自身はベンチ入り)
- 2年時(1982年度・第61回):東京都A予選 優勝、全国大会 3位(ベスト4)
- 3年時(1983年度・第62回):主将として東京都A予選 優勝、全国大会 優勝(日本一!)(大会優秀選手選出)
高校総体
- 1年時(1981年度・神奈川総体):東京都予選 優勝、全国大会 ベスト8
- 2年時(1982年度・鹿児島総体):東京都予選 優勝、全国大会 優勝(初制覇・日本一!)
- 3年時(1983年度・愛知総体):主将として東京都予選 優勝、全国大会 ベスト8
全日本ユース(高円宮杯)
- 1年時(1981年度):該当なし(※大会創設前)
- 2年時(1982年度):該当なし(※大会創設前)
- 3年時(1983年度):該当なし(※大会創設前)
国民体育大会(国体)
- 1年時(1981年・びわこ滋賀国体):東京都選抜としてサッカー少年の部 出場
- 2年時(1982年・くにびき島根国体):東京都選抜としてサッカー少年の部 出場
- 3年時(1983年・あかぎ群馬国体):東京都選抜としてサッカー少年の部 出場
代表歴
高校時代の代表・選抜歴
- 世代別日本代表:日本ユース代表候補
- 日本高校選抜:1984年選出(第62回選手権大会優秀選手・欧州遠征参加)
- 都道府県選抜:東京都選抜(国体サッカー少年の部 出場)
- Jリーグ選抜:該当なし
高校時代の代表歴について
中学時代から熊本県内で卓越した左利きのゲームメーカーとして頭角を現し、帝京高校進学後は激しいレギュラー争いの中で1年時から全国大会のベンチ入りを果たす。高校2年・3年時には東京都選抜の主力として国体に出場し、日本ユース代表候補にも名を連ねた。
高校3年時の第62回全国高校サッカー選手権では、主将としてチームを完璧に束ね上げ、旧国立競技場の決勝戦で決勝アシストを記録して全国優勝を達成。その高いリーダーシップと卓越した戦術眼が評価され、大会優秀選手および日本高校選抜に選出。ヨーロッパ遠征(デュッセルドルフ国際ユース大会等)にも参加し、世界の強豪相手に小柄ながらも技術と献身性で渡り合い、高校年代屈指のミッドフィールダーとしての評価を確固たるものにした。
卒業後の進路
大学
筑波大学体育専門学群(1984年 – 1987年 / 4年時に主将を務め総理大臣杯準優勝、関東大学リーグ優勝)
プロ・社会人
該当なし(※JSLクラブからのオファーを固辞し教員・指導者の道へ)
日本代表
該当なし
卒業後のキャリアの総評
高校卒業後は筑波大学へ進学。4年時には主将を務め、副主将の長谷川健太らと共に総理大臣杯準優勝や関東大学リーグ優勝に貢献した。大学卒業時にはJSLクラブからのプロ・実業団オファーを多数受けるも、教員だった父親との「卒業後は熊本に戻って教員になる」という約束を果たすために固辞し、指導者の道を選択した。
熊本商業高校で5年間指導した後、1993年より熊本県立大津高校へ赴任。無名だった公立高校を「年中夢求」「凡事徹底」の哲学で全国屈指の強豪へと育て上げ、選手権準優勝(2021年度)やインターハイ準優勝(2014年)、高円宮杯プレミアリーグWEST制覇などを達成。日本代表の巻誠一郎、谷口彰悟、車屋紳太郎、植田直通ら50名以上のプロ選手を輩出した。
現在は大津高校総監督を務める傍ら、宇城市教育長として教育行政にも尽力し、日本サッカー界の育成を象徴する名将として絶大な尊敬を集めている。



















