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越後 和男(四日市中央工業高校 三重県)高校サッカーヒーロー列伝
総評
精密無比なキックと広い視野、卓越したボールキープ力と戦術眼で攻撃を司った「四中工サッカーの象徴」。名将・城雄士監督率いる四日市中央工業高校で伝統の背番号10を背負い、主将としてチームを初の全国制覇へと導き、同校を全国屈指の名門へと押し上げる礎を築いた。
高校3年時の1983年度愛知インターハイでは、司令塔としてチームを牽引し、決勝で「清水東三羽烏」擁する最強・清水東高校を1-0で破って四中工史上初となる全国タイトル制覇の偉業を達成。冬の第62回全国高校選手権でも攻撃の中心として躍動し、チームを全国3位(ベスト4)へと導き、大会優秀選手および日本高校選抜に選出された。
卒業後は古河電工/ジェフ市原でJリーグ黎明期の中盤を支え、日本代表やブランメル仙台のJ昇格でも活躍。引退後も指導者として手腕を振るうレジェンドの原点は、泥臭く勝利を追求し全国の頂点を極めた四中工時代の鍛錬にある。
所属チーム
三重県立四日市中央工業高等学校
生年月日
1965年12月28日
サイズ(身長・体重)
171cm / 66kg
ポジション
MF
出身チーム
- 3種:川越町立川越中学校サッカー部(三重県三重郡川越町)
- 4種:川越町立川越北小学校サッカー少年団(三重県三重郡川越町)
出場大会
高校
高校サッカー選手権
- 1年時(1981年度・第60回):三重県予選 優勝、全国大会 3回戦敗退(ベスト16)
- 2年時(1982年度・第61回):三重県予選 優勝、全国大会 3回戦敗退(ベスト16)
- 3年時(1983年度・第62回):主将・背番号10として三重県予選 優勝、全国大会 3位(ベスト4)(大会優秀選手選出)
高校総体
- 1年時(1981年度・神奈川総体):三重県予選 優勝、全国大会 出場
- 2年時(1982年度・鹿児島総体):三重県予選 優勝、全国大会 ベスト8
- 3年時(1983年度・愛知総体):主将・背番号10として三重県予選 優勝、全国大会 優勝(四中工初タイトル制覇!)
全日本ユース(高円宮杯)
- 1年時(1981年度):該当なし(※大会創設前)
- 2年時(1982年度):該当なし(※大会創設前)
- 3年時(1983年度):該当なし(※大会創設前)
国民体育大会(国体)
- 1年時(1981年・びわこ滋賀国体):三重県選抜としてサッカー少年の部 出場
- 2年時(1982年・くにびき島根国体):三重県選抜としてサッカー少年の部 出場
- 3年時(1983年・あかぎ群馬国体):三重県選抜としてサッカー少年の部 出場
代表歴
高校時代の代表・選抜歴
- 世代別日本代表:日本ユース代表(U-19日本代表 / 1983年)
- 日本高校選抜:1984年選出(第62回選手権大会優秀選手・欧州遠征参加)
- 都道府県選抜:三重県選抜(国体サッカー少年の部 3年連続出場)
- Jリーグ選抜:該当なし
高校時代の代表歴について
三重県下で中学時代から天才肌のゲームメーカーとして知られ、四中工進学後は1年生時から伝統のチームで存在感を発揮。高校2年・3年時には三重県選抜の中心選手として国体に出場し、日本ユース代表(U-19日本代表)にも選出されてアジアユース予選など国際大会を経験した。
高校3年時の1983年度愛知総体で四中工初の全国優勝、冬の第62回全国高校選手権でベスト4に進出。その圧巻のゲームメイク能力とリーダーシップが高く評価され、大会優秀選手および日本高校選抜に選出された。ヨーロッパ遠征(デュッセルドルフ国際ユース大会等)にも参加し、屈強な欧州クラブ相手に優れたテクニックとキック精度で攻撃の起点となり、高校年代屈指の司令塔としての評価を確固たるものにした。
卒業後の進路
大学
該当なし(高卒プロ・実業団入り)
プロ・社会人
- 古河電気工業サッカー部 / ジェフユナイテッド市原(JSL1部 / Jリーグ / 1984年 – 1995年 / JSL優勝1回、アジアクラブ選手権優勝1回)
- ブランメル仙台 / ベガルタ仙台(旧JFL / J2 / 1996年 – 1999年 / 主将としてJ昇格に貢献)
日本代表
サッカー日本代表(A代表)(1986年 – 1987年 / 国際Aマッチ6試合1得点、1986年アジア大会、1987年ソウル五輪予選出場)
卒業後のキャリアの総評
1984年に四中工から日本サッカーリーグ(JSL)の名門・古河電気工業サッカー部(後のジェフユナイテッド市原)へ加入。高卒ルーキーながら卓越したキックとパスセンスで頭角を現し、1985-86シーズンのJSL優勝や1986年のアジアクラブ選手権制覇に大きく貢献した。その活躍により日本代表(A代表)に選出され、1986年アジア大会や1987年ソウル五輪予選など国際Aマッチ6試合に出場し1得点を記録した。
1993年のJリーグ開幕後もジェフ市原の重鎮MFとして中盤を統率。1996年には旧JFLのブランメル仙台(現・ベガルタ仙台)へ移籍し、主将としてチームのJリーグ昇格を牽引した。
現役引退後は指導者としてJFA公認S級コーチライセンスを取得し、ベガルタ仙台のコーチやアカデミーダイレクター、マイナビ仙台レディース監督、チャイニーズタイペイ(台湾)女子代表監督などを歴任。豊富な経験をもとに後進の育成に尽力している。



















