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黒崎 久志(宇都宮学園高校)高校サッカーヒーロー列伝

黒崎久志_宇都宮学園

黒崎 久志(宇都宮学園高校 栃木県)高校サッカーヒーロー列伝

総評

185cmの雄大な体躯と強烈なポストプレー、豪快な空中戦と迫力ある突破力でJリーグ初期の鹿島アントラーズを黄金期へ導いた「元祖・大型ストライカー」。セルジオ越後氏に見出され、名門・宇都宮学園高校(現・文星芸大付高)の赤黒ストライプの攻撃の絶対的核として君臨した。

高校2年時の第64回全国高校選手権では5得点を挙げて大会得点王に輝き、同校初の全国3位(ベスト4)へ進出。主将として臨んだ3年時には夏のインターハイで全国16強、冬の第65回選手権でも準々決勝の室蘭大谷戦(PK14-15の伝説死闘)を戦い全国8強を達成。2年連続で大会優秀選手および日本高校選抜に選出された。

本田技研を経て鹿島へ加入後はジーコらと強力攻撃陣を形成し、1996年のJリーグ年間王者に貢献。日本代表としても1993年「ドーハの悲劇」を経験するなど国際舞台で戦い抜いた偉大なストライカーの原点は、宇学の厳しい鍛錬の中で築かれた。

所属チーム

宇都宮学園高等学校(現・文星芸術大学附属高等学校)

生年月日

1968年5月8日

サイズ(身長・体重)

185cm / 80kg

ポジション

FW

出身チーム

  • 3種:粟野町立粟野中学校サッカー部(現・鹿沼市立粟野中学校 / 栃木県)
  • 4種:粟野町立粟野小学校(粟野サッカースポーツ少年団 / 栃木県)

出場大会

高校

高校サッカー選手権
  • 1年時(1984年度・第63回):栃木県予選 準優勝(全国大会不出場)
  • 2年時(1985年度・第64回):栃木県予選 優勝、全国大会 3位(ベスト4・大会得点王[5得点])(大会優秀選手選出)
  • 3年時(1986年度・第65回):主将として栃木県予選 優勝、全国大会 ベスト8(準々決勝敗退)(大会優秀選手選出)
高校総体
  • 1年時(1984年度・秋田総体):栃木県予選 優勝、全国大会 2回戦敗退(※自身はベンチ外・出場なし)
  • 2年時(1985年度・石川総体):栃木県予選 準優勝(全国大会不出場)
  • 3年時(1986年度・山口総体):主将として栃木県予選 優勝、全国大会 3回戦敗退(ベスト16)
全日本ユース(高円宮杯)
  • 1年時(1984年度):該当なし(※大会創設前)
  • 2年時(1985年度):該当なし(※大会創設前)
  • 3年時(1986年度):該当なし(※大会創設前)
国民体育大会(国体)
  • 1年時(1984年・わかくさ奈良国体):該当なし(未選出・不出場)
  • 2年時(1985年・わかとり鳥取国体):栃木県選抜としてサッカー少年の部 出場
  • 3年時(1986年・かいじ山梨国体):栃木県選抜としてサッカー少年の部 出場




代表歴

高校時代の代表・選抜歴

  • 世代別日本代表:U-17 / U-19日本代表(1984年 – 1986年)
  • 日本高校選抜:1986年・1987年選出(2年連続選出・欧州遠征参加)
  • 都道府県選抜:栃木県選抜(1985年・1986年 国民体育大会少年男子の部 出場)
  • Jリーグ選抜:該当なし

高校時代の代表歴について

小学生時代にセルジオ越後氏のサッカー教室で類まれな体格と才能を認められ、宇都宮学園高校進学後は1年時から頭角を現した。高校2年・3年時には世代別日本代表に選出され、アジアユース等の国際舞台を経験した。

全国高校選手権において2年連続でチームを全国上位(2年時:3位・得点王、3年時:ベスト8)へと導き、3年時のインターハイでも全国16強へ進出して2年連続で大会優秀選手および日本高校選抜に選出。欧州遠征でも海外の屈強なDF陣を相手に高いポストワークと得点力を発揮し、高卒時に多くの日本サッカーリーグ(JSL)強豪クラブから熱烈なオファーを受けるなど、日本を背負う大型ストライカーとしての評価を確固たるものにした。

卒業後の進路

大学

該当なし(高卒で本田技研工業へ加入)

プロ・社会人

  • 本田技研工業(JSL / 1987年 – 1992年)
  • 鹿島アントラーズ(1992年 – 1997年 / 1996年Jリーグ年間王者、1997年ナビスコ杯&天皇杯優勝)
  • 京都パープルサンガ(1998年 – 1999年)
  • ヴィッセル神戸(2000年)
  • アルビレックス新潟(2001年)
  • 大宮アルディージャ(2002年 – 2003年 / 現役引退)

日本代表

サッカー日本代表(A代表)(1989年 – 1997年 / 国際Aマッチ24試合4得点、1992年アジアカップ優勝、1993年W杯アジア最終予選「ドーハの悲劇」日本代表メンバー)

卒業後のキャリアの総評

高校卒業後に本田技研へ進み、1992年に鹿島アントラーズへ加入。Jリーグ開幕初年度からジーコ、アルシンドらと強力な攻撃陣を形成し、最前線のターゲットマンとして1996年のJリーグ制覇など鹿島の初期黄金期を支えた。

日本代表としても1992年アジアカップ優勝に貢献し、1993年のW杯アジア最終予選「ドーハの悲劇」をピッチで経験。国際Aマッチ24試合に出場し、日の丸の重みを背負って戦った。

現役引退後は指導者としてアルビレックス新潟監督や鹿島アントラーズコーチを務め、2018年には鹿島のAFCチャンピオンズリーグ初優勝に貢献。その後は中国スーパーリーグで監督を務めるなど、国内外で精力的に手腕を発揮している。