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勝矢寿延(島原商)高校サッカーヒーロー列伝

勝矢寿延_島原商

勝矢寿延(島原商 長崎県)高校サッカーヒーロー列伝

寸評

強靭なフィジカルと対人守備の強さを武器に、最後方で圧倒的な存在感を放ったディフェンダー。1961年9月2日、長崎県に生まれ、中学校進学後に本格的にサッカーを始めると、名将・小嶺忠敏監督率いる島原商業高校へ進学した。同期や先輩たちとともに猛練習で鍛え抜かれ、九州屈指の守備の要へと成長を遂げた。

高校時代は3年間を通じて全国大会の舞台を経験した。1年時の1977年度にはチームがインターハイ初優勝を果たすなかで頭角を現し、選手権にも出場。3年時の第58回全国高等学校サッカー選手権大会(1979年度)では主軸としてチームを牽引し、1回戦の金沢西戦(4-3)、2回戦の武南戦(2-0)を連勝して全国ベスト8(準々決勝)進出を果たした。

島原商業高校卒業後は大阪商業大学を経て本田技研工業サッカー部へ加入。日本サッカーリーグ屈指のセンターバックとして名を馳せ、日産自動車/横浜マリノス、ジュビロ磐田、セレッソ大阪で活躍した。日本代表としては国際Aマッチ27試合に出場し、1992年のアジアカップ優勝や1993年アメリカW杯アジア最終予選(ドーハの悲劇)で体を張ったプレーを見せた。

所属

島原商業高等学校(現・長崎県立島原商業高等学校、長崎県)

生年月日

1961年9月2日

サイズ(身長・体重)

175cm / 76kg

ポジション

DF(センターバック・サイドバック)

出身チーム

  • 3種(中学校/ジュニアユース):長崎県内中学校(要確認)
  • 4種(小学校/少年団/ジュニア):要確認(中学校から本格的にサッカーを開始)

出場大会

高校サッカー選手権(全国高等学校サッカー選手権大会)
  • 1年時(1977年度・第56回大会):2回戦敗退。1回戦の日大高戦に3-3からのPK戦(4-3)で勝利し、2回戦で帝京に0-2で敗れた。
  • 2年時(1978年度・第57回大会):2回戦敗退。1回戦の仙台育英戦に2-0で勝利し、2回戦で八千代に2-2からのPK戦(1-3)で敗れた。
  • 3年時(1979年度・第58回大会):全国ベスト8(準々決勝進出)。1回戦の金沢西戦に4-3、2回戦の武南戦に2-0で勝利し、準々決勝で水戸商に0-1で敗れた。
  • 個人表彰:確認できた記録なし
高校総体(インターハイ)
  • 1年時(1977年):全国優勝(長崎県勢として初優勝)。
  • 2年時(1978年):出場(全国優勝は北陽)。
  • 3年時(1979年):出場(全国優勝は水戸商)。
  • 個人表彰:確認できた記録なし
全日本ユース(高円宮杯)
  • 1年時(1977年)〜3年時(1979年):当時は大会創設前(第1回大会は1989年開催)。
国民体育大会(国体)
  • 1年時(1977年)〜3年時(1979年):長崎県選抜として出場(詳細な勝ち上がりスコア等は要確認)。
  • 個人表彰:確認できた記録なし

代表歴

高校時代の代表/選抜歴:長崎県選抜、高校生年代各種選抜等(要確認)。

【高校時代の代表歴について】

勝矢の高校時代は、全国的な年代別代表制度が現在ほど細分化されていなかった時代であったが、九州屈指の強豪であった島原商業高校の守備の柱として県選抜等で活躍した。名将・小嶺忠敏監督の徹底したフィジカル強化と戦術指導のもとで培われた強固な守備力は、のちの大学・実業団での日本代表招集へとつながる確かな土台となった。

大学進学後の大阪商業大学時代に頭角を現し、実業団の本田技研へ進んだのちの1985年に日本代表へ初選出された。以降、日産自動車やマリノスでの活躍を経て、1990年代前半の日本代表守備陣に欠かせない重鎮として国際舞台を戦い抜くこととなった。

卒業後の進路

プロ・社会人

  • 大阪商業大学(1980年〜1983年):関西学生サッカーリーグ等で活躍。
  • 本田技研工業サッカー部(1984年〜1990年):JSL1部でセンターバックとして活躍、JSLベストイレブンに選出。
  • 日産自動車サッカー部/横浜マリノス(1991年〜1993年):天皇杯優勝(1991年度、1992年度)。
  • ジュビロ磐田(1994年〜1997年):Jリーグ年間優勝(1997年)。
  • セレッソ大阪(1998年):1998年シーズン終了後に現役引退。
  • 通算成績:JSL1部通算134試合6得点、J1リーグ通算158試合2得点。
  • タイトル:天皇杯全日本サッカー選手権大会優勝2回(1991年度、1992年度)、Jリーグ年間優勝1回(1997年)、JSLカップ優勝1回(1985年)。
  • 個人表彰:JSLベストイレブン(1985-86年、1986-87年、1987-88年)。

日本代表(国際Aマッチ)

国際Aマッチ27試合0得点(1985年〜1993年、代表総試合出場数51試合)。1985年9月22日のW杯予選香港戦でデビュー。1986年アジア競技大会、1988年AFCアジアカップ、1992年AFCアジアカップ(優勝)、1993年FIFAワールドカップ・アメリカ大会アジア最終予選(ドーハの悲劇)。1989年にはフットサル日本代表として第1回FIFAフットサル世界選手権にも出場した。

引退後の活動・指導歴・役職

セレッソ大阪U-18コーチ、U-12・U-13監督、トップチームコーチ(2005年〜2006年)、スカウト総括責任者(2007年〜2013年)、強化部長(2014年)、セレッソ大阪サッカースクールコーチおよびアンバサダーを務め、育成や地域貢献活動に従事している。

【卒業後のキャリアの総評】

勝矢は大阪商業大学を経て加入した本田技研工業で屈指のセンターバックへと成長し、強烈な対人力と戦術眼でJSLベストイレブンに3度輝いた。その後、日産自動車および横浜マリノスへ移籍し、天皇杯連覇などに貢献。Jリーグ開幕後はジュビロ磐田の主力として1997年の年間チャンピオンに輝き、最後はセレッソ大阪で現役を締めくくった。

日本代表としては1980年代中盤から1990年代にかけて長きにわたり最終ラインを支えた。ハンス・オフト監督体制では本来のセンターバックのみならず、負傷離脱した都並敏史の穴を埋める形で左サイドバックを務めるなど献身的な働きを見せ、1992年アジアカップ初制覇や1993年ドーハの悲劇として知られるアメリカW杯最終予選を戦い抜いた。

島原商業高校時代に小嶺監督のもとで磨き上げた不屈の闘志とタフネスは、実業団からJリーグ、そして激動の日本代表黎明期を支え抜く強靭なメンタリティの礎となった。引退後はセレッソ大阪の強化部長やスカウト、アンバサダーとして後進の指導やクラブ発展に力を尽くしている。

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