石川康(武南 埼玉県)高校サッカーヒーロー列伝
寸評
ボリビア・サンタクルスのオキナワ移住地に生まれた沖縄県系移民4人兄弟の末っ子。電気も水道もない貧しい家庭で、ドラム缶を引いて約8kmの水汲みを日課にしながら育ち、地元のサッカー選手養成学校アカデミア・タウイチ・アギレラで頭角を現した。U-16ボリビア代表として1985年の第1回・1987年の第2回ワールドジュニアユース(現U-17ワールドカップ)に出場。チームメイトにはのちに1994年W杯のフィールドに立つマルコ・エチェベリやエルウィン・サンチェスがいた。
1988年、17歳で武南高校へ3年生として編入。日本語の読み書きもままならぬ異国での1年間だったが、同年の高校総体で全国ベスト4、優勝候補として臨んだ第67回選手権でも切り札として準々決勝進出に貢献した。準々決勝では市立船橋に1-3で敗れ、監督やチームメイトが号泣する姿に「日本人は自分の気持ちを表現するのが下手なんだ」と気づいたという逸話を残している。
卒業後は本田技研の社員として入社し、午前中はオートバイの組み立て作業、午後に練習という生活からJSLのレギュラーへ。バルセロナ五輪予選ではリベロとして日本を牽引し、1992年にヴェルディ川崎へ加入すると右サイドバックとしてJリーグ初代王者の原動力となった。のちに名古屋グランパスエイトでも不動のレギュラーを張り、J1通算239試合4得点の重厚な実績を刻んで2002年に現役を引退した。
所属
- 武南高等学校(埼玉県。ボリビアからの留学により編入)
生年月日
- 1970年3月10日
サイズ(身長・体重)
- 170cm / 64kg
ポジション
- DF(右サイドバック、リベロ)
出身チーム
- 3種(中学校/ジュニアユース):アカデミア・タウイチ・アギレラ(ボリビア)
- 4種(小学校/少年団/ジュニア):確認できた記録なし(要確認)
出場大会
高校サッカー選手権(全国高等学校サッカー選手権大会)
- 1年時・2年時:ボリビア在住(アカデミア・タウイチ・アギレラでプレー。武南高校への在籍は3年時のみ)。
- 3年時(1988年度・第67回大会):全国ベスト8。2回戦で宮崎中央に1-0、3回戦で広島国泰寺に3-0で勝利。準々決勝で市立船橋に1-3で敗退(優勝は清水市立商)。
- 個人表彰:確認できた記録なし
高校総体(インターハイ)
- 1年時・2年時:ボリビア在住。
- 3年時(1988年):全国ベスト4(チームメイトに池田太、川合孝治。対戦カード・スコアの詳細は要確認)。
- 個人表彰:確認できた記録なし
全日本ユース(高円宮杯)
- 3年時(1988年):在学中は大会未創設のため出場歴なし(1989年にプレ大会、第1回大会は1990年開催)
国民体育大会(国体)
- 3年時(1988年):埼玉選抜としての出場記録は確認できず。
代表歴
- 高校時代の代表・選抜歴:U-16ボリビア代表(1985年・第1回FIFAワールドジュニアユース中国大会、1987年・第2回カナダ大会。2大会とも3試合すべてに出場)。
【高校時代の代表歴について】
石川康の代表歴は、国境をまたぐ特異なものであった。ボリビア時代にU-16ボリビア代表としてワールドジュニアユース(現U-17ワールドカップ)の第1回・第2回大会に出場。1985年の中国大会ではチームは未勝利でグループステージ敗退したが、1987年のカナダ大会では主力として3試合すべてにフル出場した。その後の1988年、17歳で武南高校へ留学編入し、日本の高校サッカーで1年間を過ごした。
卒業後は本田技研での活躍により、1989年からバルセロナ五輪代表(U-23日本代表)に選出され、1991年から92年にかけてのバルセロナ五輪予選ではリベロとして日本を牽引した。日本代表デビューも飾ったが、この試合は国際Cマッチ扱いで、オフト、ファルカン、加茂の各監督から合宿招集を受けながらも国際Aマッチの出場には至らなかった。1995年にはコパ・アメリカへ臨むボリビア代表から招集の打診があったが、これを辞退。当時のFIFAの選手国籍変更規定は不明確であり、日本人初のW杯出場は幻に終わった。
卒業後の進路
プロ・社会人
- 本田技研工業サッカー部(1989年〜1992年):社員として入社し、JSL1部で1年目14試合、2年目17試合、3年目19試合の計50試合に出場(得点なし)。
- ヴェルディ川崎(1992年〜1997年):1993年にJリーグ元年の初代年間優勝、1994年の年間優勝に貢献。右サイドバックとして不動のレギュラーを張り、J1で134試合2得点。
- 名古屋グランパスエイト(1998年〜2002年):1998年にレンタル移籍し、1999年に完全移籍。加入1年目は29試合に出場。小倉隆史や森山泰行のゴールを数多くアシストした。在籍中に登録名を「石川巧」に一時変更。J1で105試合2得点。
- 通算成績:J1通算239試合4得点、旧JSL1部 50試合(リーグ戦総通算289試合4得点)。
- タイトル:1993年・Jリーグ年間優勝、1994年・Jリーグ年間優勝(ともにヴェルディ川崎)
日本代表(国際Aマッチ)
- 出場記録なし。1991年4月4日のスパルタク・モスクワ戦で日本代表デビュー(国際Cマッチ扱い)。バルセロナ五輪予選(U-23日本代表、1991年〜1992年)ではリベロとして中心選手。U-16ボリビア代表としてワールドジュニアユース2大会に出場。
引退後の活動・指導歴・役職
- 有限会社Globosport‐Asia 設立・スポーツマネジメント業務(2003年〜)
- 南米サッカー(コパ・リベルタドーレス等)のテレビ解説
- 名古屋グランパスエイト 通訳→テクニカルスタッフ(2005年。ネルシーニョ監督を支えた)
- FC琉球 ゼネラルマネージャー(2006年7月〜2007年6月)
- レキオスFC(ビーチサッカー)監督(2008年〜。現在の状況は要確認)
【卒業後のキャリアの総評】
石川康のキャリアは、二つの祖国の間で完結しなかった夢の物語でもある。本田技研ではプロ契約ではなく社員としての入団だった。午前中はオートバイの組み立てラインで働き、午後に練習という生活の中で1年目からレギュラーをつかむと、バルセロナ五輪予選ではリベロとして日本の中心に立った。それほどの実力者でありながら、ボリビア代表としての経歴が国籍変更の壁となり、国際Aマッチのユニフォームには一生袖を通せなかった。
それでもヴェルディ川崎では、ぺぺ監督に右サイドバックへの転向を命じられてから、Jリーグ初年度の1993年に初代王者の原動力となり、1994年の連覇を含む黄金時代を守備面から支えた。1998年には名古屋グランパスエイトへ移り、ここでも不動のレギュラーとして小倉隆史や森山泰行の得点を量産させ、登録名を「石川巧」と変えて2002年まで最前線で戦い抜いた。
引退後はスポーツマネジメント会社を立ち上げ、南米サッカーのテレビ解説、名古屋のテクニカルスタッフ、FC琉球のGMを歴任し、2008年からはビーチサッカーのレキオスFCの監督を務めた。日本サッカーの国際化の先駆者であり、その激動の半生は、移民の子が二つの国の間でサッカー一筋に生きた軌跡そのものである。






















