山木勝博(国見 長崎県)高校サッカーヒーロー列伝
寸評
国見史上初優勝を決めた立役者のストライカー。スピードに乗ったドリブルを武器に、1年時の第65回選手権では3年生中心で固めた“3年計画の最強軍団”の中で唯一の1年生として初戦で途中出場し、選手権デビューを飾った。チームは学校史上初出場で準優勝。2年時の第66回大会では全5試合に出場して2得点を量産し、決勝の東海大第一戦では前半23分、二宮浩の左からのセンタリングをノートラップでボレーシュート。この決勝点で国見を史上初優勝へ導き、大会優秀選手に選ばれて日本高校選抜の欧州遠征にも参加した。
3年時の第67回大会は前回王者として臨んだが、左ひざのケガに苦しみ、本来のスピードあるプレーを見せられないまま準々決勝で暁星にPK戦で屈した。それでも2年連続の大会優秀選手に選出。同期にはのちに東京ヴェルディ監督を務める永井秀樹、1学年下には原田武男、1学年上には二宮浩や吉田裕幸がいる。2年時の高校総体では全国準優勝も経験した。
卒業後は駒澤大学から中退し、1992年に日本サッカーリーグ2部の住友金属工業蹴球団へ加入。岡本賢二とともにシーズン途中の加入だったが、JSL2部で5試合に出場した。住友金属のプロ化に伴い鹿島アントラーズへ移行後も在籍したが、1993年のJリーグ開幕前に退団。Jリーグのピッチに立つことは叶わなかった。
所属
- 長崎県立国見高等学校(長崎県)
生年月日
- 1970年4月16日
サイズ(身長・体重)
- 169cm / 61kg
ポジション
- FW(センターフォワード)
出身チーム
- 3種(中学校/ジュニアユース):熊本市立城南中学校
- 4種(小学校/少年団/ジュニア):確認できた記録なし(要確認)
出場大会
高校サッカー選手権(全国高等学校サッカー選手権大会)
- 1年時(1986年度・第65回大会):初出場で全国準優勝。1回戦で市立船橋に5-0、2回戦で盛岡商に3-1、3回戦で暁星に6-1、準々決勝で四日市中央工に3-0、準決勝で室蘭大谷に1-0、決勝で東海大第一に0-2で敗退。山木は3年生中心のメンバーの中で唯一の1年生として初戦で途中出場し、選手権デビューを果たした。
- 2年時(1987年度・第66回大会):全国優勝(国見史上初優勝)。2回戦で東北学院に5-0、3回戦で暁星に2-0、準々決勝で南宇和に2-1、準決勝で四日市中央工に3-1、決勝の東海大第一戦では前半23分に二宮浩のセンタリングからのノートラップボレーシュートで決勝点を奪い1-0で勝利。大会通算5試合2得点。
- 3年時(1988年度・第67回大会):ベスト8。2回戦で水橋に2-0、3回戦で水戸商に1-1の末PK戦4-2で勝利、準々決勝で暁星に1-1の末PK戦4-5で敗退(左ひざのケガに苦しんだ)。
- 個人表彰:第66回・第67回大会優秀選手(2年連続)
高校総体(インターハイ)
- 1年時(1986年):確認できた出場記録なし。
- 2年時(1987年):全国準優勝。
- 3年時(1988年):確認できた出場記録なし。
- 個人表彰:確認できた記録なし
全日本ユース(高円宮杯)
- 1年時(1986年)〜3年時(1988年):在学中は大会未創設のため出場歴なし(1989年にプレ大会、第1回大会は1990年開催)
国民体育大会(国体)
- 1年時(1985年):国見主体の長崎選抜が鳥取国体で準優勝(本人の出場の詳細は要確認)。
- 2年時(1986年)・3年時(1987年):確認できた出場記録なし。
代表歴
- 高校時代の代表・選抜歴:日本高校選抜(2年時・第66回選手権後に欧州遠征へ参加)。
【高校時代の代表歴について】
山木の高校時代の代表歴として確認できるのは、第66回選手権での大会優秀選出に伴う日本高校選抜への選出と、その欧州遠征への参加である。大会優秀選手には2年連続で選ばれており、全国トップクラスのストライカーとしての評価が世代を代表する形で示されていた。
1970年生まれの世代は、世代別日本代表の体系的な整備が本格化する直前の世代にあたる。ユース代表は大学や実業団の選手が中心で、高校生が代表に選出される枠は現在よりはるかに小さかった。国見の初優勝に加えて高校総体準優勝という成績を同期の永井秀樹らとともに積み上げたことは、代表選抜の目が届かない時代でも、この攻撃陣の実力を広く知らしめることになった。
卒業後の進路
プロ・社会人
- 駒澤大学(1989年〜1991年):進学するが中退。
- 住友金属工業蹴球団(1992年):岡本賢二(元読売クラブ)とともにシーズン途中で加入。1992年2月26日のJSL2部第23節・川崎製鉄戦でデビューし、3月8日の第25節・NTT関東戦で1アシスト。JSL2部で5試合0得点。
- 鹿島アントラーズ(1992年):住友金属のプロ化に伴い移行後も在籍したが、1993年のJリーグ開幕前に退団。
- 通算成績:JSL2部 5試合0得点。Jリーグ公式戦出場なし。
- タイトル:確認できた記録なし
日本代表(国際Aマッチ)
- 出場記録なし。
引退後の活動・指導歴・役職
- 確認できた記録なし(要確認)。
【卒業後のキャリアの総評】
山木の現役時代のハイライトは、やはり1988年1月の国立競技場で決まった一発だった。前回大会の決勝で東海大第一に0-2で屈した国見は、1年後の同一カードで雪辱を期して臨んだ。前半23分、二宮浩の左からのクロスに山木がノートラップで合わせたボレーは、国見サッカーの速度と正確さを象徴するゴールとなり、初優勝への道を切り開いた。大会後には優秀選手に選ばれ、日本高校選抜の欧州遠征に名を連ねている。
卒業後は駒澤大学へ進学したが、のちに中退。1992年、日本サッカーリーグ2部の住友金属工業蹴球団へシーズン途中で加入し、元読売クラブの岡本賢二とともに降格争いの最中のチームに合流した。2月26日の川崎製鉄戦でデビューすると、3月にはNTT関東戦でアシストを記録するなど5試合に出場。シーズン終了後、住友金属のプロ化により鹿島アントラーズへと組織は移行したが、山木は1993年のJリーグ開幕を前に退団を決めた。
Jリーグ開幕スタメンを夢見た世代の一人として、そのピッチに立つことは叶わなかった。同世代の永井秀樹がヴェルディで長くプレーしたのとは対照的に、プロとしての道はJSL2部の5試合で閉じた。それでも1年次から選手権常連となり、国見初優勝の決勝点を奪った1年生の記録は、小嶺監督の目利きの証として、国見サッカー史に確かに刻まれている。























