古沼監督の再登板、そして冬の時代へ
古沼監督以降の監督は全国優勝ができず停滞が叫ばれている。しかし、古沼監督時代の最後はJリーグが開幕、Jリーグの下部組織へ優秀な人材が集まり、首都圏から選手集めに苦戦する。更に地方の高校の強化に力を入れ、九州などの学生は地元の学校を選ぶようになり、代表クラスの人材は集まらくなった。
古沼監督の後は計画的にチームを育てることで2年毎に監督を代えていくことになった。平成5年には後を継いだ荒谷監督は2年目の高校総体で準優勝、選手権も市立船橋に決勝で敗れるが、準優勝を成し遂げた。平成7年には松原監督は翌年の高校総体で準優勝するが、選手権では結果を出せなかった。
そこで、もう一度古沼監督が復帰すると後に日本代表でも活躍する中田浩二を擁して高校総体、選手権共に東福岡に敗れ準優勝を成し遂げ、翌年も選手権決勝でも、1年生の田中達也も活躍したが、東福岡に敗れたが、名門復活を印象づけた。そして9回目の全国制覇は平成14年の高校総体では下馬評を覆し、決勝で国見に勝利した。そして古沼監督は平成15年に監督を辞任し、平成17年に帝京を去った。
古沼監督の後は帝京初優勝時の主将で、帝京三校を全国の強豪にした廣瀬龍監督が就任した。廣瀬監督は低迷する帝京の抜本的な改革を実施。練習環境の充実を図り、平成18年清瀬市と合同で、清瀬市内に人工芝ピッチ2面、クラブハウス、30名が入れる寮を建設され、Jリーグクラブ並の環境を整えた。また、早い段階か育成を考え、ジュニアユースチームの帝京FCを設立、高校と合わせて6年間計画での育成を目指した。
その効果は徐々に出始め、平成23年にはスタメンの半分程度が帝京FC出身が占めるようになった。更に帝京大学の総監督にも就任し、中学、高校、大学と一貫指導を目指した。しかし、平成18年の高校総体でベスト4に入ったものの、その後は選手権でも初戦敗退が続いた。
平成24年には荒谷監督が再び就任。そして平成26年より帝京最後の選手権優勝の主将、日比監督が就任、名門復活が期待されている。
不屈の帝京魂
「点を取られないサッカー」が勝利に近いという考え方から、攻撃より守備を重視するスタイルである。センターバックは屈強な選手を配置、攻撃は正確なパスを出せるMF、スピードのあるサイドプレイヤー、高さと決定力のあるストライカーを揃え、堅い守備から素早く縦へボールを入れ、ドリブルやサイドからのクロスで得点を狙っていく。また、終盤になると選手の運動量を増え、波状攻撃で同点、逆転するケースが多い。これは練習からの厳しい練習、伝統を重んじる気持ちなそ、精神面が強いと考えられる。近年これは「帝京魂」とも言われている。
恵まれた環境
以前はピッチの半分ほどしかない砂のグラウンドで、こちらも名門の野球部で合同で使用していたため、工夫しながらの練習を行っていたが、平成18年清瀬市と合同で、清瀬市内に人工芝ピッチ2面、クラブハウス、30名が入れる寮を建設され、Jリーグクラブ並の環境で再起を図ろうとしていたが、現在は閉鎖帝され、帝京大学の人工芝のグラウンドやレッズランドで練習をしている。チームスタッフは帝京高校の教諭で占められている。
トレーナーは帝京大学から派遣、学生トレーナーもおり、充実している。選手は下部組織であった旧帝京FC、浦和レッズのジュニアユースを中心に、Jの下部組織、街グラブの選手が大半を占めている。