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西堂就(習志野高校)高校サッカー名将列伝

西堂就(習志野高校)高校サッカー名将列伝

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習志野高校サッカー部を率いて全国高校サッカー選手権大会で2度の全国制覇(第44回大会・第50回大会)を達成した名将・西堂就。創部間もない無名校にドリブル主体の技術を叩き込み、わずか3年半で千葉県勢史上初の日本一へ導いた。帝京・古沼貞雄監督からも恩師と慕われ、千葉県が『サッカー王国』へと飛躍する揺るぎない礎を築いた名伯楽の指導者人生と輝かしい実績を詳解します。

総評

西堂就は、1960年代から1980年代初頭にかけて習志野高校サッカー部を率い、千葉県勢初となる全国高校サッカー選手権大会優勝(第44回大会)を含め、2度の全国制覇(第44回・第50回)を成し遂げた伝説的名将である。

1962年に同校へ赴任すると、当時無名だった創部間もないチームに埼玉・浦和仕込みのドリブルと徹底した個人技を植え付け、わずか3年半で全国の頂点へと駆け上がった。当時は関東地区予選を勝ち抜くことすら困難な時代であったが、西堂率いる習志野の台頭によって千葉県に単独の全国大会出場枠「1」が認められる契機となった。

また、帝京高校を戦後最多タイの全国制覇へと導いた古沼貞雄監督が「恩師」として敬意を払うなど、昭和の高校サッカー界を牽引した指導者たちにも多大な影響を与えた。規律と技術、そして勝負強さを兼ね備えたその指導哲学は、のちの本田裕一郎監督による全国制覇や、市立船橋・流通経済大柏へと受け継がれ、現在の「サッカー王国・千葉」の確固たる礎となった。

基本情報

  • 氏名:西堂 就(にしどう たかし)
  • 生年月日:1920年(大正9年)頃(※故人)
  • 出身地:埼玉県
  • 出身校:浦和師範附属小学校 → 東京府豊島師範学校

指導歴

  • 千葉経済高等学校 サッカー部指導
  • 1962年8月〜1984年3月:習志野市立習志野高等学校 サッカー部監督

大会の戦績

全国高校サッカー選手権大会

出場11回(優勝2回、ベスト4 1回、ベスト8 3回)

年度 高校名 大会名(出場回数) 成績・結果 備考
1962年度 習志野高校 第41回全国高校サッカー選手権大会(初出場) 1回戦敗退 千葉県勢として大会初出場
1963年度 習志野高校 第42回全国高校サッカー選手権大会(2回目) 2回戦敗退
1965年度 習志野高校 第44回全国高校サッカー選手権大会(3回目) 優勝 千葉県勢史上初の全国制覇(明星高校と両校優勝)
1967年度 習志野高校 第46回全国高校サッカー選手権大会(4回目) ベスト4(3位)
1968年度 習志野高校 第47回全国高校サッカー選手権大会(5回目) ベスト8
1970年度 習志野高校 第49回全国高校サッカー選手権大会(6回目) 1回戦敗退
1971年度 習志野高校 第50回全国高校サッカー選手権大会(7回目) 優勝 2度目の全国制覇(決勝で藤枝東高校を2-0で下し単独優勝)
1972年度 習志野高校 第51回全国高校サッカー選手権大会(8回目) 2回戦敗退
1976年度 習志野高校 第55回全国高校サッカー選手権大会(9回目) 2回戦敗退 首都圏開催・千葉県単独代表枠初年度
1977年度 習志野高校 第56回全国高校サッカー選手権大会(10回目) ベスト8
1982年度 習志野高校 第61回全国高校サッカー選手権大会(11回目) ベスト8

全国高等学校総合体育大会(インターハイ)

出場7回

年度 高校名 大会名(出場回数) 成績・結果 備考
1966年度 習志野高校 昭和41年度全国高校総体(初出場) 出場 第1回インターハイ出場
1967年度 習志野高校 昭和42年度全国高校総体(2回目) 出場
1968年度 習志野高校 昭和43年度全国高校総体(3回目) 出場
1969年度 習志野高校 昭和44年度全国高校総体(4回目) 出場 4年連続出場
1971年度 習志野高校 昭和46年度全国高校総体(5回目) 出場
1974年度 習志野高校 昭和49年度全国高校総体(6回目) 出場
1979年度 習志野高校 昭和54年度全国高校総体(7回目) 出場

選手経歴

  • 高校時代:東京府豊島師範学校(第20回全国中等学校蹴球大会 ベスト4進出)

西堂就のサッカー人生は、日本サッカーの黎明期とも言える戦前の師範学校時代に端を発する。

少年期を埼玉県で過ごした西堂は、浦和師範附属小学校を経て東京の豊島師範学校(東京府豊島師範学校)に進学した。同校4年次(現在の高校1年生相当)には、全国中等学校蹴球大会(現在の全国高等学校サッカー選手権大会)に出場を果たし、卓越した技能と統率力でチームを全国ベスト4へと導いた。戦前の最高峰の舞台で培った勝負勘と技術へのこだわりは、その後の指導者人生における貴重な血肉となった。

戦後、教育者としての道を歩み始めた西堂は、千葉経済高校などを経て1962年に習志野高校へ赴任する。自らのルーツである浦和のサッカー文化や先輩・藤波武三との縁を生かし、技術に乏しかった習志野の選手たちにドリブルを中心としたボールコントロールと基礎体力を徹底的に叩き込んだ。戦前に選手として全国の熱気を肌で知り、戦後に指導者として全国の頂点に登り詰めたその軌跡は、高校サッカー草創期における名将の象徴的な姿であった。