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水沼 貴史(浦和南高校)高校サッカーヒーロー列伝

水沼貴史_浦和南

水沼 貴史(浦和南高校 埼玉県)高校サッカーヒーロー列伝

総評

抜群のスピードと切れ味鋭いドリブル突破、そして高精度のクロスでピッチを疾走した日本屈指のウインガー。名将・松本暁司監督率いる「赤き血のイレブン」浦和南高校で1年生時から背番号を背負い、右サイドの切り込み隊長として攻撃を自在に牽引した。

高校1年時の1976年度には、首都圏初開催となった第55回全国高校サッカー選手権大会の決勝(対静岡学園戦:5-4の伝説の乱打戦)でゴールを挙げるなど大活躍を見せ、全国制覇(浦和南として選手権2連覇)に大きく貢献。夏のインターハイでも全国4強に進出するなど、高校サッカー界のアイドル的存在として一世を風靡した。

卒業後は法政大学を経て日産自動車(現・横浜F・マリノス)に加入し、木村和司や金田喜稔らとともに黄金時代を築き数々のタイトルを獲得。日本代表としても国際Aマッチ32試合7得点を記録した日本サッカー界のレジェンドである。

所属チーム

浦和市立南高等学校(現・さいたま市立浦和南高等学校)

生年月日

1960年5月28日

サイズ(身長・体重)

168cm / 64kg

ポジション

FW / MF

出身チーム

  • 3種:浦和市立本太中学校サッカー部(埼玉県浦和市 / 現・さいたま市立本太中学校)
  • 4種:浦和本太サッカースポーツ少年団(埼玉県浦和市)

出場大会

高校

高校サッカー選手権
  • 1年時(1976年度・第55回):埼玉県予選 優勝、全国大会 優勝(選手権2連覇)大会優秀選手選出
  • 2年時(1977年度・第56回):埼玉県予選 優勝、全国大会 3位(ベスト4)大会優秀選手選出
  • 3年時(1978年度・第57回):埼玉県予選 敗退(全国大会不出場)
高校総体
  • 1年時(1976年度・新潟総体):埼玉県予選 優勝、全国大会 3位(ベスト4)
  • 2年時(1977年度・岡山総体):埼玉県予選 優勝、全国大会 ベスト8
  • 3年時(1978年度・福島総体):埼玉県予選 優勝、全国大会 出場(1回戦敗退)
全日本ユース(高円宮杯)

該当なし(※第1回大会の創設は1989年度のため、高校在籍時は未創設・未開催)

国民体育大会(国体)
  • 1年時(1976年・第31回佐賀国体):埼玉県選抜(浦和南高校主体)として少年男子 準優勝
  • 2年時(1977年・第32回青森国体):埼玉県選抜として出場
  • 3年時(1978年・第33回やまなし国体):埼玉県選抜として出場




代表歴

高校時代の代表・選抜歴

  • 世代別日本代表:日本ユース代表(U-19 / U-20日本代表:高校時代から主力選出)
  • 日本高校選抜:1977年(高校1年時)・1978年(高校2年時)選出(欧州遠征参加)
  • 都道府県選抜:埼玉県高校選抜(1976年佐賀国体準優勝・1977年青森国体・1978年やまなし国体 出場)
  • Jリーグ選抜:該当なし(当時Jリーグ発足前)

高校時代の代表歴について

本太少年団、本太中学時代から全国制覇を経験し、サッカーどころ浦和で早くからその才能を嘱望された。浦和南高校進学後は1年生時から名将・松本暁司監督の信頼を掴み、首都圏初開催となった第55回選手権で全国制覇を成し遂げて一躍全国区のスター選手となった。

高校在籍時から年代別日本代表(ユース代表)や日本高校選抜に選出され、海外遠征などを経験。高校卒業直後の1979年には、日本で開催されたFIFAワールドユース選手権に背番号10を背負って出場するなど、同世代のトップランナーとして日本サッカー界を牽引した。

卒業後の進路

大学

法政大学(1979年 – 1982年 / 第4回・第6回総理大臣杯全日本大学サッカートーナメント優勝、1982年関東大学リーグ優勝)

プロ

  • 日産自動車サッカー部 / 横浜マリノス(1983年 – 1995年 / JSL優勝2回、天皇杯優勝6回、JSLカップ優勝3回、アジアカップウィナーズカップ優勝2回など)

日本代表

サッカー日本代表(A代表)(1984年 – 1989年 / 国際Aマッチ32試合7得点、1986年W杯予選、1988年ソウル五輪予選等)、U-20日本代表(1979年ワールドユース日本大会出場)

卒業後のキャリアの総評

法政大学進学後も大学サッカー界屈指のアタッカーとしてタイトル獲得に貢献し、1983年に日産自動車サッカー部へ加入。木村和司、金田喜稔らとともに「ミスターマリノス」として日産黄金時代を築き、1988年度・1989年度の2年連続国内3冠達成などに大きく貢献した。

日本代表としても1980年代中盤から後半にかけて攻撃の主軸として活躍し、国際Aマッチ32試合で7得点を記録。Jリーグ開幕後は横浜マリノスの初代キャプテン格・ベテランとしてチームを支え、1995年のサントリーシリーズ優勝を見届けて現役を引退した。

引退後はサッカー解説者として鋭く温かい語り口で人気を博すほか、横浜F・マリノス監督や法政大学コーチなどを歴任し、日本サッカーの普及と発展に多大な貢献を続けている。