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野田知(室蘭大谷)高校サッカーヒーロー列伝

野田知_室蘭大谷

野田知(室蘭大谷 北海道)高校サッカーヒーロー列伝

寸評

守備職人として知られた実務型のミッドフィルダー。ボランチと左ウイングバックを兼任でき、高い精度のプレースキックを武器に、華やかな司令塔の陰で中盤のバランスを取った。天才ゲームメーカーの同級生・財前恵一と二人三脚で室蘭大谷の黄金期を支え、その信頼関係は後にJリーグの舞台でも発揮される。Jリーグ開幕戦では横浜マリノスのスタメン最年少として、歴史の幕開けのピッチに立った。

高校では3年連続で全国選手権に出場。2年時の1985年インターハイ(石川・金沢)では全国準優勝を達成し、3年時の第65回選手権では1回戦の広島工戦を0-0のPK戦5-4で制すると、準々決勝の宇都宮学園戦では黒崎久志を擁する相手と両チーム15人ずつが蹴る伝説のPK戦15-14を制覇。準決勝で国見に0-1と屈したものの全国ベスト4へ導いた。国体では北海道選抜にも選出されている。

卒業後は国士舘大学を経て日産自動車(後の横浜マリノス)へ入り、Jリーグ元年の開幕戦に先発出場。1995年にはリーグ戦50試合すべてにフル出場してチームのJリーグ年間優勝に貢献し、J1通算278試合14得点の重厚な実績を刻んだ。アビスパ福岡、ヴォルカ鹿児島での現役終了後は指導者へ転身。ヴィッセル神戸ではユース監督を11年間務め、現在はサンフレッチェ広島ユース監督として次世代の育成に当たっている。

所属

  • 室蘭大谷高等学校(北海道。現校名・北海道大谷室蘭高等学校)

生年月日

  • 1969年3月19日

サイズ(身長・体重)

  • 174cm / 68kg(現役時)

ポジション

  • MF(ボランチ・左ウイングバック)

出身チーム

  • 3種(中学校/ジュニアユース):室蘭市立向陽中学校
  • 4種(小学校/少年団/ジュニア):小学生時代にサッカーを開始(所属チームは確認できず)

出場大会

高校サッカー選手権(全国高等学校サッカー選手権大会)
  • 1年時(1984年度・第63回大会):出場(対戦相手・結果の詳細は確認できず)。
  • 2年時(1985年度・第64回大会):1回戦で鹿児島実業に2-2の末、PK戦2-4で敗退(1回戦敗退)。
  • 3年時(1986年度・第65回大会):ベスト4。1回戦で広島工に0-0の末PK戦5-4で勝利(野田は3人目のキッカーとして決めた)、準々決勝で宇都宮学園に両チーム15人ずつが蹴るPK戦15-14で勝利、準決勝で国見に0-1で敗退(国見はこの大会で準優勝)。
  • 個人表彰:確認できた記録なし
高校総体(インターハイ)
  • 1年時(1984年):チームは全国大会2回戦敗退(自身の出場記録は確認できず)。
  • 2年時(1985年・石川総体):全国準優勝。準々決勝で四日市中央工をPK戦の末に下して勝ち上がった。
  • 3年時(1986年・山口総体):チームは全国大会2回戦敗退。
  • 個人表彰:確認できた記録なし
全日本ユース(高円宮杯)
  • 1年時(1984年)〜3年時(1986年):在学中は大会未創設のため出場歴なし(1989年にプレ大会、第1回大会は1990年開催)
国民体育大会(国体)
  • 1年時(1984年):確認できた出場記録なし。
  • 2年時(1985年)・3年時(1986年):北海道選抜(サッカー少年の部)として国体出場(各年に出場したかの詳細は確認できず)。

代表歴

  • 高校時代の代表・選抜歴:国民体育大会の北海道選抜(サッカー少年の部)。世代別日本代表・日本高校選抜としての出場記録は確認できず。

【高校時代の代表歴について】

1969年生まれの野田の世代は、世代別日本代表の体系的な整備が進む前であり、ユース代表の枠組みは大学や実業団の選手が中心で、高校生が代表に選出される道は現在よりはるかに限られていた。日本高校選抜としての活動も現在ほど定期的ではなく、

そのため野田自身の高校時代における代表歴として確認できるのは、国体に出場した北海道選抜への選出にとどまる。ただし全国トップレベルの高校3年間が、卒業後すぐの代表経験へつながった。大学3年次の1988年には日本代表BとしてAFCアジアカップに出場してカタール戦に起用され、1989年には第1回FIFAフットサル世界選手権(当時はファイブ・ア・サイド)の日本代表として世界大会に立った。

卒業後の進路

プロ・社会人

  • 国士舘大学(1987年〜1990年):大学選手権で2年時・3年時にベスト8、4年時に準優勝。
  • 日産自動車/横浜マリノス(1990年〜1998年):1993年5月15日のJリーグ開幕戦(国立競技場・観衆59,626人)で横浜Mのスタメン最年少として先発出場し、2-1の歴史的勝利を経験。1994年はリーグ戦41試合に先発、1995年はリーグ戦50試合すべてにフル出場して1stステージ優勝・年間優勝に貢献、1996年はキャリアハイの4得点。マリノスではリーグ戦194試合10得点。1992年のJリーグカップでは全9試合に出場。
  • アビスパ福岡(1999年〜2002年):J1で3年連続20試合超(27試合2得点、29試合2得点、28試合)の出場を続け、2002年はJ2で16試合に出場して退団。
  • ヴォルカ鹿児島(2003年〜2004年):コーチ兼選手として九州リーグでプレー。
  • 通算成績:J1リーグ278試合14得点、J2リーグ16試合、旧JSL3試合(リーグ戦通算294試合14得点、公式戦通算349試合14得点)。
  • タイトル:1995年・Jリーグ1stステージ優勝および年間優勝(横浜マリノス)

日本代表(国際Aマッチ)

  • 出場記録なし。日本代表BとしてAFCアジアカップ1988に出場(グループリーグのカタール戦に起用)。フットサル日本代表として1989年・第1回FIFAフットサル世界選手権に出場。

引退後の活動・指導歴・役職

  • 2003年〜2004年 ヴォルカ鹿児島 コーチ兼選手
  • 2005年 ヴィッセル神戸 トップチームコーチ
  • 2006年 ヴィッセル神戸 ジュニアユースコーチ
  • 2007年〜2010年 ヴィッセル神戸 ジュニアユース監督
  • 2011年〜2021年 ヴィッセル神戸 ユース(U-18)監督
  • 2022年 サンフレッチェ広島 ユースコーチ
  • 2023年〜 サンフレッチェ広島 ユース監督(現職)

【卒業後のキャリアの総評】

Jリーグ開幕戦のピッチにスタメンで立ち、10年後にその開幕を振り返る立場になった選手は多くない。1993年5月15日の国立競技場、59,626人の観衆が詰めかけたヴェルディ川崎戦で、24歳の野田は横浜マリノスのスタメン最年少として先発し、2-1の歴史的勝利を体験した。日産自動車時代を含めれば1990年からトップレベルの競争に身を置き、1992年のJリーグカップでは全9試合に出場して開幕を支えた。

横浜マリノスでは井原正巳らとともに1990年代の黄金期を支えた。1994年はリーグ戦41試合にすべて先発で応え、1995年には50試合すべてにフル出場して1stステージ優勝と年間優勝の二冠に貢献。1996年にはキャリアハイの4得点を記録した。1999年にアビスパ福岡へ移籍してJ1の主力として3年間プレーし、最後はヴォルカ鹿児島でコーチ兼選手としてピッチを去った。

指導者としては2005年に神戸のトップチームコーチへ就任すると、ジュニアユース監督を経て2011年から2021年までU-18監督を11年間務め、高円宮杯プレミアリーグWESTでも優勝に導いた。2022年に広島のユースコーチへ移ると、翌年からユース監督として現場を率いる。プロで活躍する選手を育てる言葉どおり、開幕から全盛期を知る指導者の今後も注視したい。

室蘭大谷(ヒーロー列伝)

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