池田伸康(帝京 東京都)高校サッカーヒーロー列伝
寸評
埼玉・さいたま市から帝京へ進み、2年次から全国屈指の強豪の中盤を支えたミッドフィルダー。1987年にはインターハイで全国ベスト4、同年度の第66回選手権では準々決勝まで進んで全国ベスト8に輝いた。3年時の第67回選手権でも1回戦で山口に5-1、2回戦で岐阜工に3-0と快勝。全国大会で常に上位に絡む帝京の中核として、安定した実力を発揮し続けた。
その活躍は世代の枠を超え、3年次の1988年にはU-20日本代表に選出。卒業後も1989年から92年にかけてU-23日本代表の活動に名を連ねた。高校・大学を通じて世代トップクラスの評価を受け続けた、静かな実力者である。
卒業後は早稲田大学を経て浦和レッズへ。Jリーグ元年から同クラブの中盤を支え、以後川崎フロンターレ、水戸ホーリーホックを渡り歩いてリーグ戦通算145試合6得点。引退後は浦和で育成指導者の道を歩み、ジュニアユース監督、ユース監督を歴任して2024年にはトップチームの暫定監督も務めた。
所属
- 帝京高等学校(東京都)
生年月日
- 1970年5月18日
サイズ(身長・体重)
- 170cm / 63kg(現役時)
ポジション
- MF
出身チーム
- 3種(中学校/ジュニアユース):確認できた記録なし(要確認)
- 4種(小学校/少年団/ジュニア):FC浦和(1982年の全日本少年サッカー大会で3位、優秀選手に選出)
出場大会
高校サッカー選手権(全国高等学校サッカー選手権大会)
- 1年時(1986年度・第65回大会):チームの全国大会出場はなし。
- 2年時(1987年度・第66回大会):全国ベスト8。1回戦で北陽に2-1、2回戦で小禄に5-1、3回戦で水口に2-0で勝利。準々決勝で東海大第一に0-0の末、PK戦2-3で敗退。
- 3年時(1988年度・第67回大会):ベスト16。1回戦で山口に5-1、2回戦で岐阜工に3-0で勝利、3回戦で四日市中央工に1-2で敗退。
- 個人表彰:確認できた記録なし
高校総体(インターハイ)
- 1年時(1986年):確認できた出場記録なし。
- 2年時(1987年):全国ベスト4(対戦カード・スコアの詳細は要確認)。
- 3年時(1988年):確認できた出場記録なし。
- 個人表彰:確認できた記録なし
全日本ユース(高円宮杯)
- 1年時(1987年)〜3年時(1989年):在学中は大会未創設のため出場歴なし(1989年にプレ大会、第1回大会は1990年開催)
国民体育大会(国体)
- 1年時(1987年)〜3年時(1989年):埼玉選抜としての出場記録は確認できず。
代表歴
- 高校時代の代表・選抜歴:U-20日本代表(1988年)。出場した大会・試合の詳細は要確認。
【高校時代の代表歴について】
1980年代後半、世代別日本代表はまだ整備途上にあり、ユース代表の多くが大学・実業団の選手から選ばれる時代だった。高校生にとって代表の扉は狭く、全国大会での結果が実力証明の最大の舞台だった。池田は帝京の中盤を2年次から支え、インターハイベスト4と選手権ベスト8という成績を、全国屈指の強豪たちと渡り合う中で積み上げた。
その実績が認められ、3年次の1988年にU-20日本代表へ選出。卒業後も1989年から1992年にかけてU-23日本代表に選出されるなど、バルセロナ五輪世代の中盤として招集を重ねた。国際Aマッチの出場記録はないが、高校・大学・プロを通じて世代トップクラスの評価を保ち続けた選手である。
卒業後の進路
プロ・社会人
- 早稲田大学(1989年〜1992年):ア式蹴球部でプレー。
- 浦和レッドダイヤモンズ(1993年〜1999年):Jリーグ元年から中盤を支え、J1通算107試合4得点。
- 川崎フロンターレ(2000年):J1で9試合1得点。
- 水戸ホーリーホック(2001年〜2002年):J2で29試合1得点。
- 通算成績:リーグ戦通算145試合6得点(J1 116試合5得点、J2 29試合1得点)。
- タイトル:確認できた記録なし
日本代表(国際Aマッチ)
- 出場記録なし。U-20日本代表(1988年)、U-23日本代表(1989年〜1992年)に選出。
引退後の活動・指導歴・役職
- 浦和レッドダイヤモンズ ジュニアユース監督(2010年〜2012年)
- 浦和レッドダイヤモンズ ユース監督(2019年〜2022年)
- 浦和レッドダイヤモンズ トップチームコーチ(2023年〜)
- 浦和レッドダイヤモンズ 暫定監督(2024年8月27日就任。ヘグモ監督の解任に伴う暫定措置)
- 2013年〜2018年の役職:確認できた記録なし(要確認)
【卒業後のキャリアの総評】
1993年、Jリーグが幕を開けた年、池田は浦和レッズの一員としてその歴史の第一歩に立ち会った。早稲田大学での4年間を経てゆかりのある埼玉のクラブへ入り、以後7シーズンにわたってレッズの中盤を支える。華やかな舞台の主役ではなかったが、J1通算107試合4得点という数字は、最上位リーグで必要とされ続けたことの証である。
2000年に川崎フロンターレへ移るとJ1で9試合1得点。翌年からは水戸ホーリーホックでJ2の2シーズンを過ごし、2002年に現役を退いた。リーグ戦通算145試合6得点。輝かしいタイトルこそないが、Jリーグ開幕からJ2の飛躍まで、日本サッカーの激動の10年間を第一線で生き抜いた実務家だった。
引退後は指導者として浦和に戻る。ジュニアユース監督、ユース監督を歴任し、2023年からはトップチームコーチ。2024年8月にはヘグモ監督の解任に伴って暫定監督に就任し、クラブの過渡期に指揮を執った。選手としても指導者としてもレッズ一筋。その歩みは、赤いユニフォームへの確かな信頼の裏返しである。



















