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谷中治(帝京)高校サッカーヒーロー列伝

谷中治_帝京

谷中治(帝京 東京都)高校サッカーヒーロー列伝

寸評

驚異的な俊足を誇り、左サイドから鋭く中央へと切り込んでゴールを脅かした快速アタッカー。卓越したスピードと高いサッカーセンスを併せ持ち、カナリア色のユニフォームを身にまとって帝京高校の攻撃を牽引した。同級生には楠瀬直木、1学年下には前田治、広瀬治、平岡和徳らが揃う黄金期の中で、主軸ストライカーとして存在感を示した。

高校時代のハイライトは2年時から3年時にかけての圧倒的な得点力である。2年時の第60回全国高校サッカー選手権では5得点を挙げて得点王を獲得。さらに3年夏の1982年高校総体(インターハイ)では、大会通算11得点という爆発的なゴール量産で得点王に輝き、帝京高校を全国制覇へと導いた。3年時の第61回選手権でも大会優秀選手に選ばれるなど、高校年代トップクラスのフォワードとして名を轟かせた。

卒業後は日本サッカーリーグの強豪・フジタ工業へ加入し、10代で日本代表に初選出された。その後はPJMフューチャーズ(後の鳥栖フューチャーズ)への移籍を経て現役を引退。引退後は長年にわたりジュニアユース年代の指導現場に立ち続け、子どもたちの育成やクラブ運営に深く携わっている。

所属

帝京高等学校(東京都)

生年月日

1964年9月24日

サイズ(身長・体重)

173cm / 77kg

ポジション

FW(ウイング・フォワード)

出身チーム

  • 3種(中学校/ジュニアユース):府中市立府中第二中学校
  • 4種(小学校/少年団/ジュニア):府ロクサッカー少年団(現 府ロクサッカークラブ)

出場大会

高校サッカー選手権(全国高等学校サッカー選手権大会)
  • 1年時(1980年度・第59回大会):2回戦敗退。帝京高校は初戦となった2回戦で清水東(静岡)と対戦し、1-3で敗れた(谷中自身の公式記録上の出場状況詳細は要確認)。
  • 2年時(1981年度・第60回大会):ベスト8進出。帝京高校は2回戦で大社(島根)を5-0、3回戦で中津工(大分)を3-0で破り準々決勝へ進出。準々決勝で武南(埼玉)に0-1で敗れた。谷中は大会通算5得点を記録。
  • 個人表彰:大会得点王(5得点)
  • 3年時(1982年度・第61回大会):全国ベスト4(3位)。帝京高校は1回戦で作陽(岡山)を3-0、2回戦で室蘭大谷(北海道)を2-0、3回戦で水戸商(茨城)を3-1、準々決勝で東海大五(福岡)を3-1で撃破。準決勝で清水東(静岡)に0-1で惜敗した。
  • 個人表彰:大会優秀選手
高校総体(インターハイ)
  • 1年時(1980年・第15回大会):徳島県開催。帝京高校としての出場記録なし(東京都代表は城北)。
  • 2年時(1981年・第16回大会):神奈川県開催。帝京高校としての出場記録なし(東京都代表は本郷)。
  • 3年時(1982年・第17回大会):全国優勝。鹿児島県で開催された本大会において、帝京高校は順調に勝ち上がり、決勝で京都商(京都)を3-0で破って全国制覇を達成。谷中は大会通算11得点をマーク。
  • 個人表彰:大会得点王(11得点)
全日本ユース(高円宮杯)
  • 1年時(1980年)〜3年時(1982年):当時は全日本ユース選手権(高円宮杯)の創設前(第1回大会は1989年に開催)。
国民体育大会(国体)
  • 1年時(1980年・第35回栃の葉国体)〜3年時(1982年・第37回くにびき国体):東京都選抜等の詳細な登録記録は確認できず。

代表歴

高校時代の代表/選抜歴:日本ユース代表(キャプテン)、1982年度高校選手権優秀選手。

【高校時代の代表歴について】

帝京高校での傑出した活躍により、世代のトッププレーヤーとして日本ユース代表に選出された。持ち前の快足と高い戦術眼を評価され、ユース代表チームではキャプテンを務めるなどリーダーシップも発揮した。

高校最後の第61回全国高校サッカー選手権大会でも優秀選手に名を連ね、卒業後すぐの日本トップリーグ入りや、10代での日本代表へのスピード招集へとつながる確固たる足がかりを高校時代に築き上げた。

卒業後の進路

プロ・社会人

  • フジタ工業/フジタ(1983年〜1991年):日本サッカーリーグ(JSL)でプレー。1985年にはペルー短期留学を経験。JSL東西対抗戦(オールスターサッカー)に2回出場(1984年、1986年)。
  • PJMフューチャーズ/鳥栖フューチャーズ(1991年〜1995年):地域リーグからJリーグを目指すクラブに加入し、日本人最年長選手として牽引。1995年シーズンをもって現役引退。
  • 通算成績:JSL1部 99試合17得点、JSL2部 39試合2得点、旧JFL 28試合7得点、旧J2 17試合9得点。国内リーグ戦通算183試合35得点。
  • タイトル:確認できた記録なし
  • 個人表彰:JSL東西対抗戦(オールスター)選出(1984年、1986年)

日本代表(国際Aマッチ)

国際Aマッチ3試合0得点(1984年〜1986年)。1984年9月30日の日韓定期戦(ソウル)で10代にして日本代表デビュー。1986年にはムルデカ大会(マレーシア)に出場し、同年のアジア競技大会(ソウル)日本代表メンバーにも選出された。

引退後の活動・指導歴・役職

1995年に鳥栖フューチャーズで選手兼任コーチを務めた後、1996年からJACPA東京ジュニアユースの監督を22年間にわたり務める。2018年からは後継組織となるJACPA BOBBIT TOKYO FC(現 BOBBIT TOKYO FC)の代表・監督を務め、育成年代の指導に専念している。

【卒業後のキャリアの総評】

高校卒業後の1983年、日本サッカーリーグ屈指の強豪であったフジタ工業へ加入。高卒2年目の1984年には公式戦で2桁得点を記録し、同年9月には森孝慈監督率いる日本代表のメンバーとしてソウルでの日韓定期戦に先発出場を果たした。10代での国際Aマッチデビューは当時極めて異例の抜擢であった。

その後はペルー留学などを経験しながらJSLの第一線で活躍し、1991年からはJリーグ入りを目指すPJMフューチャーズ(後の鳥栖フューチャーズ)へ移籍。豊富な経験を持つベテランとしてチーム創設期の屋台骨を支え、1995年の現役引退まで熱いプレーでクラブを牽引した。

現役引退後は指導者の道へと進み、東京都内のジュニアユース年代で長年クラブチームの代表・監督として後進の育成に尽力。自身の経験と技術を次の世代へ伝える活動を続けている。

帝京(ヒーロー列伝)

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