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名取篤(帝京)高校サッカーヒーロー列伝

名取篤_帝京

名取篤(帝京 東京都)高校サッカーヒーロー列伝

寸評

広い視野と高い戦術眼、確かな技術で中盤を掌握した帝京高校の攻撃的ミッドフィールダー。埼玉県浦和市で育ち、木崎小学校から木崎中学校を経て、名門・帝京高校へ進学した。171cmの引き締まった体躯から放たれる長短のパスと冷静沈着なゲームメイクは、当時の高校サッカー界で突出した輝きを放った。

帝京高校では1年時に早くも頭角を現し、1977年度の第56回全国高校サッカー選手権大会でスーパーサブとして全国制覇を経験した。2年時にはU-20日本代表に抜擢され、1979年のワールドユース日本大会メンバーに選出。3年時の第58回高校選手権ではチームの中心選手として大会を牽引し、韮崎高校との決勝を制して2度目の全国優勝を果たした。端正なルックスと鮮烈なプレーで絶大な人気を集め、社会現象とも呼べる高校サッカーフィーバーの主役となった。

高校卒業後は日本サッカーリーグの三菱重工業サッカー部へ進み、ルーキーイヤーから中盤の主力として活躍してJSL新人王を受賞した。1982年にはJSL1部リーグ制覇に貢献し、のちに日本代表にも選出されて国際Aマッチ6試合に出場。Jリーグ開幕後も浦和レッズの創成期をベテランとして支え、引退後は浦和レッズのアカデミー各カテゴリーで指導者やスカウトとして後進の育成に長く貢献した。

所属

帝京高等学校(東京都)

生年月日

1961年11月12日

サイズ(身長・体重)

171cm / 68kg

ポジション

MF(攻撃的MF・ボランチ)

出身チーム

  • 3種(中学校/ジュニアユース):浦和市立木崎中学校(埼玉県)
  • 4種(小学校/少年団/ジュニア):浦和市立木崎小学校(埼玉県)

出場大会

高校サッカー選手権(全国高等学校サッカー選手権大会)
  • 1年時(1977年度・第56回大会):全国優勝。1回戦の広島工戦に2-0、2回戦の遠野戦に2-0、準々決勝の宇都宮農戦に4-0、準決勝の北陽戦に2-0、決勝の四日市中央工戦に5-0で勝利し、大会通算無失点での全国制覇を達成。名取はスーパーサブとしてチームの優勝に貢献した。
  • 2年時(1978年度・第57回大会):東京都予選敗退(第57回全国大会への出場なし)。
  • 3年時(1979年度・第58回大会):全国優勝。1回戦の徳島商戦に2-0、2回戦の旭戦に3-0、準々決勝の水島工戦に1-0、準決勝の愛知戦に2-1、決勝(1980年1月8日/国立霞ヶ丘陸上競技場)の韮崎戦に4-0で快勝し、2年ぶり3度目の全国制覇を成し遂げた。
  • 個人表彰:確認できた記録なし(大会得点王は帝京のチームメイトである川添孝一が5得点で獲得)。
高校総体(インターハイ)
  • 1年時(1977年):確認できた出場記録なし(優勝は島原商)。
  • 2年時(1978年):確認できた出場記録なし(優勝は北陽)。
  • 3年時(1979年):全国大会出場(優勝は水戸商)。
  • 個人表彰:確認できた記録なし
全日本ユース(高円宮杯)
  • 1年時(1977年)〜3年時(1979年):大会創設前(第1回大会は1989年開催のため該当なし)。
国民体育大会(国体)
  • 1年時(1977年)〜3年時(1979年):東京都選抜等の詳細な個人登録記録は要確認(この期間の少年男子優勝は静岡/千葉/千葉)。

代表歴

高校時代の代表/選抜歴:U-20日本代表(1978年秋〜1979年、1979 FIFAワールドユース選手権日本大会登録メンバー)。

【高校時代の代表歴について】

名取篤の高校時代における最大の代表歴は、1979年に日本で初開催されたFIFAワールドユース選手権(現FIFA U-20ワールドカップ)日本大会のU-20日本代表メンバーへの選出である。

高校2年生の秋にユース代表へ抜擢され、翌1979年のワールドユース本大会では、清水市立商業高校の風間八宏や仙台向山高校の鈴木淳とともに「高校生トリオ」として大きな脚光を浴びた。本大会でのピッチ出場機会こそ恵まれなかったものの、世界基準の強化環境の中で培われた経験は、同年度冬の高校選手権制覇やその後の日本トップリーグでの活躍へと直結した。

卒業後の進路

プロ・社会人

  • 三菱重工業/三菱自動車/浦和レッドダイヤモンズ(1980年〜1994年):JSL1部リーグ通算190試合9得点、JSL2部通算25試合0得点、Jリーグ通算31試合0得点、カップ戦通算31試合2得点、天皇杯通算30試合1得点。
  • 通算成績:公式戦通算317試合12得点(国内リーグ戦通算246試合9得点)。
  • タイトル:JSL1部優勝(1982年、三菱重工)、JSL新人王(1980年)。
  • 個人表彰:JSL新人王(1980年)、JSL東西対抗戦(オールスター)選出2回(1981年、1991年)。

日本代表(国際Aマッチ)

国際Aマッチ6試合0得点(1988年〜1989年)。1988年10月26日の日韓定期戦(国立霞ヶ丘競技場)で国際Aマッチ初出場。1990 FIFAワールドカップ・アジア予選、1989年南米遠征(ブラジル戦等)に出場。国際Cマッチ等を含む日本代表通算19試合0得点。

引退後の活動・指導歴・役職

1994年限りで現役引退後、浦和レッズの育成組織指導者に就任。浦和レッズユースコーチ(1995年〜1996年)、ジュニアユース監督(1997年〜1999年、2004年〜2009年)、トップチームコーチ(2000年)、ユース監督(2001年〜2003年)、ジュニアユースコーチ(2010年〜2018年)、浦和レッズレディースコーチ(2018年10月〜12月)、育成スカウトおよびジュニアコーチを歴任した。

【卒業後のキャリアの総評】

高校卒業後の1980年に日本サッカーリーグの名門・三菱重工業サッカー部へ加入した名取篤は、1年目からリーグ戦全18試合に出場して3得点を挙げ、JSL新人王を獲得する鮮烈なデビューを果たした。高いサッカーIQとボール奪取能力、卓越した展開力を武器に中盤の中心選手として定着し、1982年には尾崎加寿夫らとともにJSL1部リーグ優勝の原動力となった。

1988年には日本代表に招集され、日韓定期戦でAマッチデビューを飾ると、1989年の1990年イタリアW杯アジア予選や南米遠征ブラジル戦などでも日の丸を背負って戦った。チームがJSL2部降格を経験した苦境の時期にもチームを支え続け、1992年のJリーグ発足に伴い浦和レッドダイヤモンズへ移行した後もボランチとしてチームを牽引した。

現役生活のすべてを浦和・三菱の一筋で過ごした「ワンクラブマン」として1994年にスパイクを脱いだ後は、浦和レッズの育成年代を一貫して指導した。ユース・ジュニアユースの監督やスカウトを務め、長きにわたりクラブの基盤強化と次世代の選手育成に多大な貢献を残している。

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