高木 琢也(国見高校 長崎県)高校サッカーヒーロー列伝
総評
188cmの圧倒的な体躯と強烈無比なヘディング、前線での強靭なポストプレーを武器に日本サッカー界を牽引した伝説のストライカー「アジアの大砲」。高校サッカー史に燦然と輝く名門・長崎県立国見高等学校において、名将・小嶺忠敏監督が島原商業から転任してきた最初期のエースとして鍛え上げられ、その後の「国見王朝」の礎を築いた初代レジェンドである。
中学時代は豪腕投手として鳴らした野球少年だったが、小嶺監督の国見転任を見越して国見高校へ進学。高校2年時の小嶺監督赴任に伴い、過酷を極めた猛練習に耐えて急成長を遂げた。最上級生となった1985年にはキャプテンとして国見高校史上初となる全国高校総体(インターハイ)出場へと導き、同年のわかくさ鳥取国体では国見高校主体の長崎県選抜を全国初制覇へと導いた。
大阪商業大学を経てサンフレッチェ広島で活躍し、Jリーグ発足後はオフトジャパンのエースとして1992年アジアカップ優勝や「ドーハの悲劇」を経験。引退後も横浜FCやV・ファーレン長崎をJ1昇格に導くなど名将として知られる。
所属チーム
長崎県立国見高等学校
生年月日
1967年11月12日
サイズ(身長・体重)
188cm / 84kg(※現役時)
ポジション
FW
出身チーム
- 3種:北有馬町立北有馬中学校サッカー部(現・南島原市立北有馬中学校 / 長崎県南高来郡北有馬町)
- 4種:北有馬町内の小学校(※小学生時代は野球少年として活動)
出場大会
高校
高校総体
- 1年時(1983年度・愛知総体):長崎県予選 敗退(全国大会不出場)
- 2年時(1984年度・秋田総体):長崎県予選 敗退(全国大会不出場)
- 3年時(1985年度・山形総体):主将として長崎県予選 優勝、全国大会 出場(国見高校史上初のインターハイ全国大会初出場達成!)
高校サッカー選手権
- 1年時(1983年度・第62回):長崎県予選 敗退(全国大会不出場)
- 2年時(1984年度・第63回):長崎県予選 敗退(全国大会不出場)
- 3年時(1985年度・第64回):長崎県予選 準決勝敗退(全国大会不出場 / 平戸高校に敗退)
全日本ユース(高円宮杯)
- 1年時(1983年度):該当なし(※大会創設前)
- 2年時(1984年度):該当なし(※大会創設前)
- 3年時(1985年度):該当なし(※大会創設前)
国民体育大会(国体)
- 1年時(1983年・群馬国体):長崎県選抜
- 2年時(1984年・奈良国体):長崎県選抜
- 3年時(1985年・鳥取国体):主将・エースとして長崎県選抜を牽引、サッカー少年の部 優勝(全国制覇!)
代表歴
高校時代の代表・選抜歴
- 世代別日本代表:日本ユース代表候補
- 日本高校選抜:高校選抜候補
- 都道府県選抜:長崎県選抜(1985年わかくさ鳥取国体・サッカー少年の部 全国優勝)
- Jリーグ選抜:該当なし
高校時代の代表歴について
中学生時代まで野球の剛腕投手として活躍し、高校進学後に名将・小嶺忠敏監督の指導を受けて才能が一気に開花した。
高校3年時の1985年には、国見高校単独チームを中心に編成された長崎県選抜のエース兼キャプテンとして国民体育大会(わかくさ鳥取国体)に出場。抜群の高さとフィジカルの強さを武器にゴールを量産し、長崎県選抜を少年の部初優勝へと導いた。この活躍により世代屈指の大型ターゲットマンとして全国に名を知らしめ、日本ユース代表候補や高校選抜候補に名を連ねた。高校卒業後は大阪商業大学で関西学生選抜やバルセロナ五輪予選日本代表に選出され、日本を代表する本格派センターフォワードへと飛躍を遂げていった。
卒業後の進路
大学
大阪商業大学(1986年 – 1989年 / 総理大臣杯全日本大学サッカートーナメント準優勝、関西学生選抜、日本代表初選出)
プロ・社会人
- フジタ(JSL / 1990年 – 1991年)
- マツダ / サンフレッチェ広島(J1 / 1991年 – 1997年 / 1994年サントリーシリーズ優勝、1994年Jリーグベストイレブン)
- 東京ヴェルディ(J1 / 1998年 – 1999年)
- コンサドーレ札幌(J2 / 2000年 / J2優勝・J1昇格貢献・現役引退)
日本代表
- 国際Aマッチ 44試合27得点(1992年 – 1997年)
- 「アジアの大砲」としてオフトジャパンのエースストライカーに君臨
- ダイナスティカップ1992 得点王
- AFCアジアカップ1992広島大会 優勝(決勝サウジアラビア戦で決勝ボレーゴール)
- 1993年アメリカW杯アジア最終予選(「ドーハの悲劇」)
引退後の指導歴・役職
- 横浜FC 監督(2006年 – 2007年 / 2006年J2優勝・クラブ史上初のJ1昇格達成)
- 東京ヴェルディ 監督(2009年)
- ロアッソ熊本 監督(2010年 – 2012年)
- V・ファーレン長崎 監督(2013年 – 2018年 / 2017年J2・2位でクラブ史上初のJ1昇格達成)
- 大宮アルディージャ 監督(2019年 – 2020年)
- SC相模原 監督・取締役スポーツダイレクター(2021年 – 2024年)
- V・ファーレン長崎 取締役兼CRO / クラブアドバイザー
卒業後のキャリアの総評
高校卒業後の1986年、関西の名門・大阪商業大学へ進学。総理大臣杯準優勝などに貢献し、大学時代に日本代表(A代表)へ初選出された。1990年に日本サッカーリーグ(JSL)のフジタへ加入後、1991年にマツダ(現・サンフレッチェ広島)へ移籍した。
1993年に開幕したJリーグではサンフレッチェ広島のエースストライカーとして君臨。1994年のサントリーシリーズ(1stステージ)ステージ優勝に大きく貢献し、同年のJリーグベストイレブンに選出された。ハンス・オフト監督率いる日本代表でも不動のCFとして君臨し、1992年のアジアカップ広島大会決勝で劇的なボレーシュートを決めて日本初優勝をもたらすなど「アジアの大砲」として一世を風靡。国際Aマッチ44試合27得点という抜群の得点率を記録した。その後ヴェルディ川崎、コンサドーレ札幌でプレーし、2000年に現役を引退した。
引退後は指導者として卓越した手腕を発揮。2006年に横浜FCをJ2優勝・J1昇格へ導き、2013年からは故郷のV・ファーレン長崎を率いて2017年にクラブ史上初となるJ1昇格の快挙を達成。その後も大宮アルディージャやSC相模原で指揮を執った。



























