赤澤 昌美(国見高校 長崎県)高校サッカーヒーロー列伝
総評
強烈なリーダーシップと屈強な対人力、激しい空中戦の強さで最終ラインを統率し、国見高校を史上初の全国制覇へと導いた「国見王朝の初代キャプテン」。名将・小嶺忠敏監督が島原商業から国見高校へと赴任した1984年に1期生として入学。小島光顕や其田秀太、古島清人、岩本文昭ら同期の猛者たちを束ね、名もなき公立高校だった国見高校サッカー部をわずか3年間で全国の頂点へと押し上げた偉大な精神的支柱である。
高校2年時の1985年には山形インターハイ初出場と鳥取国体優勝を経験。最上級生となった1986年度にはキャプテンとしてチームを牽引し、夏の山口インターハイで国見高校史上初となる全国制覇(初出場初優勝)の金字塔を打ち立てた。冬の第65回全国高校サッカー選手権大会でも初陣の市立船橋戦を5-0で圧勝するなど破竹の進撃を見せて決勝へ進出。東海大一に0-2で敗れたものの堂々の初出場全国準優勝を果たし、大会優秀選手に選出された。
順天堂大学を経てJリーグ創設期の鹿島アントラーズやコスモ石油でプレー。引退後も地域でのサッカー普及や指導に尽力している。
所属チーム
長崎県立国見高等学校
生年月日
1968年5月5日
サイズ(身長・体重)
175cm / 69kg(※現役時)
ポジション
DF(センターバック / スイーパー / ストッパー)
出身チーム
- 3種:熊本県内の中学校サッカー部(※詳細非公表)
- 4種:熊本県内の少年サッカークラブ
出場大会
高校
高校総体
- 1年時(1984年度・秋田総体):長崎県予選 敗退(全国大会不出場)
- 2年時(1985年度・山形総体):長崎県予選 優勝、全国大会 出場(国見高校史上初のインターハイ初出場!)
- 3年時(1986年度・山口総体):主将として長崎県予選 優勝、全国大会 優勝(国見高校史上初の全国初制覇・初出場初優勝!)
高校サッカー選手権
- 1年時(1984年度・第63回):長崎県予選 敗退(全国大会不出場)
- 2年時(1985年度・第64回):長崎県予選 準決勝敗退(全国大会不出場 / 平戸高校に敗退)
- 3年時(1986年度・第65回):主将として長崎県予選 優勝(国見高校選手権初出場)、全国大会 準優勝!&【大会優秀選手選出】(1回戦:5-0 市立船橋、2回戦:3-1 盛岡商、3回戦:6-1 暁星、準々決勝:3-0 四日市中央工、準決勝:1-0 室蘭大谷、決勝:0-2 東海大一)
全日本ユース(高円宮杯)
- 1年時(1984年度):該当なし(※大会創設前)
- 2年時(1985年度):該当なし(※大会創設前)
- 3年時(1986年度):該当なし(※大会創設前)
国民体育大会(国体)
- 1年時(1984年・奈良国体):長崎県選抜
- 2年時(1985年・鳥取国体):長崎県選抜の守備の柱としてサッカー少年の部 優勝(全国制覇!)
- 3年時(1986年・山梨国体):長崎県選抜
代表歴
高校時代の代表・選抜歴
- 世代別日本代表:U-19日本代表(日本ユース代表)
- 日本高校選抜:1987年選出(第65回大会優秀選手・欧州遠征参加)
- 都道府県選抜:長崎県選抜(1985年鳥取国体少年の部 全国優勝)
- Jリーグ選抜:該当なし
高校時代の代表歴について
熊本県でサッカーを始め、高い身体能力と闘争心を買われて長崎の名門・国見高校へ進学。小嶺忠敏監督の徹底した指導のもと、強固なフィジカルとキャプテンシーを磨き上げた。
高校2年時の1985年には長崎県選抜のセンターバックとして国民体育大会(わかくさ鳥取国体)に出場し、見事に全国優勝を達成。3年時には主将として夏の山口総体優勝、冬の第65回選手権準優勝という輝かしい実績を最終ラインから牽引し、同世代トップクラスのディフェンダーとしてU-19日本代表(日本ユース代表)に選出された。さらに全国選手権終了後には大会優秀選手として日本高校選抜に選出され、ヨーロッパ遠征に参加。海外の屈強なFW相手にも体を張ったハードな守備で立ち向かい、高い評価を得た。
卒業後の進路
大学
順天堂大学蹴球部(1987年 – 1990年 / 関東大学リーグ、全日本大学サッカー選手権優勝等に貢献)
プロ・社会人
- 住友金属工業蹴球部 / 鹿島アントラーズ(JSL1部・J1 / 1991年 – 1993年 / JSL10試合出場、Jリーグ創設期の鹿島にDFとして在籍)
- コスモ石油サッカー部(旧JFL / 1994年 – 1996年 / 現役引退)
日本代表
日本ユース代表
引退後の活動・役職
- 鹿島アントラーズOBとして地域サッカースクール・巡回サッカー教室指導員を担当
- 永井秀樹引退試合(2017年)出場
卒業後のキャリアの総評
高校卒業後の1987年、関東大学サッカーの名門・順天堂大学へ進学。大学サッカー界でも屈指のディフェンダーとして関東大学リーグや全日本大学選手権(インカレ)などで活躍した。
大学卒業後の1991年、日本サッカーリーグ(JSL)1部の住友金属工業蹴球部へ加入。1992年に住友金属を母体として発足した鹿島アントラーズのプロ化初期メンバーとして登録され、JSL時代を含めてリーグ戦10試合に出場した。ジーコやアルシンドら世界的スーパースターが加入し、Jリーグ初年度のサントリーシリーズで優勝を果たす歴史的瞬間をチームの一員として経験した。1994年に関東社会人から旧JFLに昇格したコスモ石油サッカー部(三重県四日市市)へ移籍し、センターバックとしてチームの守備陣を支えた後、現役を引退した。
引退後は鹿島アントラーズのOBとして地域でのサッカースクールや巡回指導にあたり、少年少女への普及活動に尽力。2017年には国見高校の後輩である永井秀樹の引退試合にレジェンド選手として参加するなど、国見高校黄金時代の礎を築いた初代主将として今なおファンから敬愛されている。
























