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岩崎 泰之(清水商業高校 静岡県)高校サッカーヒーロー列伝
総評
182cmの圧倒的な高さを誇り、抜群の空中戦と激しいマンマークで数多のストライカーを封じ込めた清水商業高校の大型ストッパー。名将・大瀧雅良監督率いる清水市立商業高校(清水商)に進学すると、下級生時から恵まれた体格と的確なポジショニングを買われて最終ラインの要として抜擢された。
高校2年時の1988年度には、第67回全国高校サッカー選手権に出場。主将の三浦文丈、藤田俊哉、1年生の山田隆裕らと共に勝ち上がり、決勝では市立船橋の猛攻を完封して1-0で全国制覇(日本一)を達成。決勝戦のピッチで市立船橋の強力アタッカー陣をことごとく跳ね返した。最上級生となった1989年度には、藤田俊哉と共にチームを牽引し、夏の高知総体で大岩剛、薩川了洋ら下級生と組んで清水商業史上初となるインターハイ全国優勝を達成。さらに同年秋に創設された第1回全日本ユース選手権でも初代王者に輝き、全国2冠の偉業を成し遂げた。
卒業後は日本サッカーリーグ(JSL)の名門・ヤマハ発動機(現・ジュビロ磐田)へ加入。Jリーグ草創期のジュビロ磐田や本田技研で長身ディフェンダーとしてチームを支えた。
所属チーム
清水市立商業高等学校(現・静岡市立清水桜が丘高等学校)
生年月日
1971年4月9日
サイズ(身長・体重)
182cm / 75kg(※現役時)
ポジション
DF(センターバック / ストッパー)
出身チーム
- 3種:清水市立第五中学校サッカー部(静岡県清水市)
- 4種:静岡県内少年団(清水FC等)
出場大会
高校
高校サッカー選手権
- 1年時(1987年度・第66回):静岡県予選 準優勝(決勝:0-2 東海大一高校 / 全国大会不出場)
- 2年時(1988年度・第67回):静岡県予選 優勝(決勝:2-1 清水東高校)、全国大会 優勝(全国制覇・日本一!)(※先発ストッパーとして全試合出場、決勝:1-0 市立船橋高校)
- 3年時(1989年度・第68回):静岡県予選 準決勝敗退(全国大会不出場 / 清水東高校に0-0 PK戦で惜敗)
高校総体
- 1年時(1987年度・北海道総体):静岡県予選 優勝、全国大会 ベスト8(8強進出!)(準々決勝:0-1 帝京高校)
- 2年時(1988年度・山形総体):静岡県予選 敗退(全国大会不出場 / 静岡県代表は東海大一高校、全国優勝は市立船橋高校)
- 3年時(1989年度・高知総体):静岡県予選 優勝、全国大会 優勝(全国制覇・初優勝!)(※先発DFとして大岩剛、薩川了洋らと強固な最終ラインを形成、決勝:6-2 大宮東高校)
全日本ユース(高円宮杯)
- 1年時(1987年度):該当なし(※大会創設前)
- 2年時(1988年度):該当なし(※大会創設前)
- 3年時(1989年度・第1回):東海地区代表、全国大会 優勝(全国制覇・初代チャンピオン!)
国民体育大会(国体)
- 1年時(1987年・沖縄国体):静岡県選抜
- 2年時(1988年・京都国体):静岡県選抜
- 3年時(1989年・北海道国体):静岡県選抜
代表歴
高校時代の代表・選抜歴
- 世代別日本代表:日本ユース代表候補(1989年)
- 日本高校選抜:候補選出
- 都道府県選抜:静岡県選抜(1987年沖縄国体、1988年京都国体、1989年北海道国体出場)
- Jリーグ選抜:該当なし
高校時代の代表歴について
静岡県出身。清水市立第五中学校を経て清水市立商業高校へ進学。当時としては極めて貴重な180cm超の大型ストッパーとして大瀧雅良監督の信頼を掴み、2年時には第67回全国高校選手権で日本一の立役者となった。
高校2年時および3年時には静岡県選抜のセンターバックとして国民体育大会に出場。日本ユース代表候補や日本高校選抜候補にも名を連ね、圧倒的な空中戦の強さと冷静なカバーリングで全国のスカウトから注目を集めた。全国高校選手権制覇、全国高校総体初制覇、全日本ユース初代王者という高校年代3大主要タイトルのうち2つを制覇した輝かしい実績を引っ提げ、高卒即でJSLの名門・ヤマハ発動機への加入を果たした。
卒業後の進路
プロ・社会人
- ヤマハ発動機サッカー部 / ジュビロ磐田(JSL1部・J1 / 1990年 – 1995年 / コニカカップ、ゼロックス・チャンピオンズ・カップ、Jサテライトリーグ等出場)
- 本田技研工業サッカー部(旧JFL / 1996年 – 1997年 / 1997年現役引退)
引退後・現在の活動
サッカー指導者・普及活動
卒業後のキャリアの総評
高校卒業後の1990年、日本サッカーリーグ(JSL)1部のヤマハ発動機サッカー部(後のジュビロ磐田)へ加入。名門クラブの大型ディフェンダーとして期待を受け、Jリーグ創設期に向けてチーム強化が進む中、1991年のコニカカップや1992年のゼロックス・チャンピオンズ・カップなどに出場。Jサテライトリーグやトップチームで長身を生かしたディフェンスを披露した。
1996年からはジャパンフットボールリーグ(旧JFL)の本田技研工業サッカー部(現・Honda FC)へ移籍。門番と恐れられた強豪社会人チームで最終ラインの一角としてプレーを続け、1997年シーズン限りで現役を引退した。
引退後は地元・静岡県を中心にサッカーの普及や後進の育成に携わり、清水商業高校黄金期を支えた大型ストッパーとしての経験を地域サッカー界に伝えている。























