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風間 八宏(清水商業高校 静岡県)高校サッカーヒーロー列伝
総評
並外れたボールコントロール技術と広い視野、敵の逆を突くスルーパスで相手を無力化し、現代サッカーにおける「止めて、蹴る」の極意を体現した日本サッカー史上不世出の天才司令塔。名門・清水市立商業高校(清水商)へ進学すると、1年生時から別格の才能を披露。名将・大瀧雅良監督に「教えることは何もない」と言わしめ、監督自身の指導観をも根本から変革させた伝説の存在である。
高校時代は静岡学園や藤枝東、清水東など全国トップクラスの強豪がひしめく超激戦区・静岡県において、1年生から3年連続で静岡県高校ベストイレブンに選出。3年時の1979年度には夏の全国高校総体(滋賀総体)で清水商を全国ベスト8へと導き、秋の宮崎国体では静岡県選抜の司令塔として全国制覇を成し遂げた。さらに高校在学中の1979年に日本で開催された第2回FIFAワールドユース選手権では、高校生ながら背番号10番を託され、ディエゴ・マラドーナら世界最高峰の同世代と同じピッチで躍動した。
筑波大学を経てドイツ・ブンデスリーガへ渡り、日本人プロの草分けとして活躍。Jリーグ開幕戦では日本人第1号ゴールを記録し、引退後は川崎フロンターレなどで攻撃サッカーの金字塔を打ち立てた。
所属チーム
清水市立商業高等学校(現・静岡市立清水桜が丘高等学校)
生年月日
1961年10月16日
サイズ(身長・体重)
173cm / 67kg(※現役時)
ポジション
MF(司令塔 / ゲームメーカー / オフェンシブハーフ / ボランチ)
出身チーム
- 3種:清水市立第一中学校サッカー部(静岡県清水市)
- 4種:清水市立江尻小学校 / 清水FC
出場大会
高校
高校サッカー選手権
- 1年時(1977年度・第56回):静岡県予選 敗退(全国大会不出場 / 静岡県代表は浜名高校)
- 2年時(1978年度・第57回):静岡県予選 敗退(全国大会不出場 / 静岡県代表は静岡学園高校)
- 3年時(1979年度・第58回):静岡県予選 準決勝敗退(全国大会不出場 / 静岡県代表は藤枝東高校)
高校総体
- 1年時(1977年度・岡山総体):静岡県予選 敗退(全国大会不出場 / 静岡県代表は藤枝東高校)
- 2年時(1978年度・福島総体):静岡県予選 敗退(全国大会不出場 / 静岡県代表は静岡学園高校)
- 3年時(1979年度・滋賀総体):静岡県予選 優勝、全国大会 ベスト8(8強進出!)
全日本ユース(高円宮杯)
該当なし(※1989年創設のため大会創設前)
国民体育大会(国体)
- 1年時(1977年・青森国体):静岡県選抜
- 2年時(1978年・長野国体):静岡県選抜
- 3年時(1979年・宮崎国体):静岡県選抜の司令塔としてサッカー少年の部 優勝(全国制覇!)
代表歴
高校時代の代表・選抜歴
- 世代別日本代表:U-20日本代表(日本ユース代表 / 1979年FIFAワールドユース選手権日本大会 10番として全3試合先発出場、1978年AFCユース選手権バングラデシュ大会出場)
- 都道府県選抜:静岡県選抜(1979年宮崎国体少年の部 全国優勝)
- 個人表彰:静岡県高校サッカーベストイレブン(1977年、1978年、1979年と3年連続選出)
- 日本高校選抜・Jリーグ選抜:該当なし
高校時代の代表歴について
静岡県清水市出身。清水FC、清水第一中学校を経て清水市立商業高校へ進学。大瀧雅良監督の就任初期における絶対的エースとして君臨し、3年連続で静岡県高校ベストイレブンに選ばれるなど県内を席巻した。
高校在籍時の代表歴は日本サッカー史に残る特筆すべき実績を誇る。1978年にバングラデシュで開催されたAFCユース選手権に出場すると、高校3年時の1979年8月には日本で開催された第2回FIFAワールドユース選手権(現・U-20W杯)に選出。鈴木淳や名取篤らとともに「高校生トリオ」として脚光を浴び、背番号10番をつけて全3試合に先発フル出場した。さらに同年の宮崎国体でも静岡県選抜を全国優勝へと導き、その卓越したテクニックは世界基準として早くから国内外で認知されていた。
卒業後の進路
大学
筑波大学蹴球部(1980年 – 1983年 / 関東大学リーグ優勝、全日本大学サッカー選手権優勝等)
海外プロ(ドイツ)
- バイエル・レバークーゼンII(西ドイツ・アマチュア / 1984年 – 1985年)
- BVL08レムシャイト(西ドイツ・オーバーリーガ / ブンデスリーガ2部 / 1985年 – 1988年)
- アイントラハト・ブラウンシュヴァイク(西ドイツ・ブンデスリーガ2部 / 1988年 – 1989年)
国内プロ・社会人
マツダSC / サンフレッチェ広島(JSL2部・JSL1部・J1 / 1989年 – 1995年 / 1993年Jリーグ開幕戦で日本人選手第1号ゴールを記録、1994年サントリーシリーズ優勝、初代主将)
日本代表
国際Aマッチ 19試合0得点(1980年 – 1983年、1992年 – 1995年 / 大学1年時の1980年12月にA代表デビュー、ハンス・オフト体制でも招集)
引退後の指導歴・役職
- 桐蔭横浜大学サッカー部 監督(1998年 – 2003年)
- 筑波大学蹴球部 監督(2008年 – 2012年4月)
- 川崎フロンターレ 監督(2012年4月 – 2016年 / 攻撃的パスサッカー「風間メソッド」を確立)
- 名古屋グランパス 監督(2017年 – 2019年9月 / 2017年J1昇格達成)
- セレッソ大阪 アカデミー技術委員長(2021年 – 2023年)
- 南葛SC 監督兼テクニカルダイレクター(2024年 – 現在)
卒業後のキャリアの総評
高校卒業後の1980年、名門・筑波大学へ進学。関東大学リーグ優勝や全日本大学サッカー選手権などで活躍し、大学1年時の1980年12月には日本代表(A代表)に選出され、シンガポール戦で国際Aマッチデビューを果たした。
大学卒業後はJSLには進まず、1984年に西ドイツへ渡航。バイエル・レバークーゼンのアマチュアチームを皮切りに、BVL08レムシャイトやアイントラハト・ブラウンシュヴァイクなどブンデスリーガ2部・3部で5年間にわたりプロ選手としてプレー。奥寺康彦に次ぐヨーロッパでの日本人プロ選手の先駆者となった。
1989年に帰国してマツダSC(現・サンフレッチェ広島)へ加入。1993年5月16日のJリーグ開幕戦(ジェフ市原戦)では、記念すべき「日本人選手Jリーグ初ゴール」を記録した。主将として1994年サントリーシリーズ優勝に貢献し、1997年に現役を引退した。
引退後は桐蔭横浜大学、筑波大学の監督を経て、2012年から2016年まで川崎フロンターレを指揮。「止めて、蹴る」を徹底する攻撃的パスサッカーを確立し、クラブ黄金期の強固な礎を築いた。その後、名古屋グランパス監督、セレッソ大阪アカデミー技術委員長を歴任し、2024年からは南葛SCの監督兼テクニカルダイレクターを務めている。























