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小島 光顕(国見高校)高校サッカーヒーロー列伝

小島光顕_国見

小島 光顕(国見高校 長崎県)高校サッカーヒーロー列伝

総評

抜群の危機察知能力と冷静沈着な戦術眼、強靭な対人守備と正確無比なフィードで国見高校の最終ラインに君臨した「名門・国見の初代リベロ」。名将・小嶺忠敏監督が島原商業から国見高校へ赴任した1984年に1年生として入学し、小嶺監督による過酷なチーム強化の洗礼を真っ向から受けながら、国見高校サッカー部を全国屈指の超強豪へと押し上げた創成期の象徴的存在である。

高校2年時の1985年にはインターハイ初出場と鳥取国体優勝を経験。そして最上級生となった1986年度には、夏の山口インターハイで国見高校史上初となる全国制覇(初出場初優勝)の偉業を達成した。冬の第65回全国高校サッカー選手権大会でも初出場ながら破竹の勢いで決勝へと駆け上がり、東海大一に惜敗したものの堂々の全国準優勝に輝き、大会優秀選手に選出された。1回戦の市立船橋戦では自らドリブル突破から2得点を挙げるなど攻撃センスも発揮した。

東京農業大学を経てサンフレッチェ広島へ加入し、1993年のJリーグ開幕戦で決勝ゴールを記録。アビスパ福岡でも守備の要として活躍し、引退後も神奈川でクラブ運営やインクルーシブサッカーに尽力している。

所属チーム

長崎県立国見高等学校

生年月日

1968年7月14日

サイズ(身長・体重)

174cm / 74kg(※現役時)

ポジション

DF / MF(リベロ / センターバック / 守備的MF / 左サイドバック)

出身チーム

  • 3種:長崎県内の中学校サッカー部(※詳細非公表)
  • 4種:長崎県内の少年サッカークラブ(※小学生時代にサッカーを開始)

出場大会

高校

高校総体
  • 1年時(1984年度・秋田総体):長崎県予選 敗退(全国大会不出場)
  • 2年時(1985年度・山形総体):長崎県予選 優勝、全国大会 出場(国見高校史上初のインターハイ全国大会初出場!)
  • 3年時(1986年度・山口総体):長崎県予選 優勝、全国大会 優勝(国見高校史上初の全国初制覇・初出場初優勝!)
高校サッカー選手権
  • 1年時(1984年度・第63回):長崎県予選 敗退(全国大会不出場)
  • 2年時(1985年度・第64回):長崎県予選 準決勝敗退(全国大会不出場 / 平戸高校に敗退)
  • 3年時(1986年度・第65回):長崎県予選 優勝(国見高校選手権初出場)、全国大会 準優勝!&【大会優秀選手選出】(1回戦:5-0 市立船橋[小島2得点]、2回戦:3-1 盛岡商、3回戦:6-1 暁星、準々決勝:3-0 四日市中央工、準決勝:1-0 室蘭大谷、決勝:0-2 東海大一)
全日本ユース(高円宮杯)
  • 1年時(1984年度):該当なし(※大会創設前)
  • 2年時(1985年度):該当なし(※大会創設前)
  • 3年時(1986年度):該当なし(※大会創設前)
国民体育大会(国体)
  • 1年時(1984年・奈良国体):長崎県選抜
  • 2年時(1985年・鳥取国体):長崎県選抜の主力としてサッカー少年の部 優勝(全国制覇!)
  • 3年時(1986年・山梨国体):長崎県選抜




代表歴

高校時代の代表・選抜歴

  • 世代別日本代表:U-19日本代表(日本ユース代表)
  • 日本高校選抜:1987年選出(第65回大会優秀選手・欧州遠征参加)
  • 都道府県選抜:長崎県選抜(1985年鳥取国体少年の部 全国優勝
  • Jリーグ選抜:該当なし

高校時代の代表歴について

長崎県内でサッカーを始め、小嶺忠敏監督が国見高校に赴任した1984年に入学。1年時から厳しい指導を受けて急速に頭角を現した。

高校2年時の1985年には長崎県選抜の主力として国民体育大会(わかくさ鳥取国体)に出場し、見事に全国優勝を達成。高校3年時には夏のインターハイ初優勝、冬の全国選手権準優勝という輝かしい実績を最終ラインから支え、その卓越した守備統率力が高く評価されてU-19日本代表(日本ユース代表)に選出された。さらに第65回全国高校選手権終了後には大会優秀選手として日本高校選抜に選出され、ヨーロッパ遠征に参加。海外の屈強なアタッカーを相手にも的確なポジショニングと鋭い読みで対応し、同世代トップクラスの守備職人として高い評価を得た。

卒業後の進路

大学

東京農業大学農学部(1987年 – 1990年)

プロ・社会人

  • 富士通サッカー部(JSL2部 / 1991年 – 1992年 / 46試合出場)
  • サンフレッチェ広島(J1 / 1993年 – 1998年 / 1993年開幕戦で決勝ゴール、1994年サントリーシリーズステージ優勝)
  • アビスパ福岡(J1 / 1999年 – 2002年 / DFリーダーとしてJ1残留に貢献・現役引退)
  • ※J1通算233試合4得点、Jリーグ通算264試合4得点

日本代表

日本ユース代表

引退後の活動・役職

  • 整体師資格取得・サロン開業
  • 相模原フットサルコート「COZISPO(コジスポ)」 代表(2008年開設)
  • FCオルテンシア相模原 監督・代表
  • FCアロンドラ相模原 設立・運営
  • NPO法人アクティブスポーツ 代表(障がい者と健常者が共にプレーするインクルーシブサッカーの普及)

卒業後のキャリアの総評

高校卒業後の1987年、関東大学リーグの東京農業大学へ進学。大学時代も主力ディフェンダーとしてチームを支え、卒業後の1991年に日本サッカーリーグ(JSL)2部の富士通サッカー部(現・川崎フロンターレ)へ加入した。富士通では加入1年目からボランチとしてレギュラーに定着し、2シーズンでリーグ戦46試合に出場した。

1993年のJリーグ開幕に合わせてサンフレッチェ広島へ移籍。同年5月16日の記念すべきJリーグ開幕戦(対ジェフユナイテッド市原)において、途中出場から豪快な決勝ミドルシュートを叩き込み、クラブのJリーグ初勝利の立役者となった。スチュワート・バクスター監督のもとボランチやセンターバック、サイドバックをこなす守備のスペシャリストとして重宝され、1994年のサントリーシリーズ(1stステージ)ステージ優勝に大きく貢献した。1999年にアビスパ福岡へ移籍し、ベテランとして最終ラインの統率と統率力を発揮してチームを牽引。2002年シーズン限りで現役を引退した。J1通算233試合4得点、Jリーグ通算264試合4得点を記録した。

引退後は整体師の資格を取得しサロンを開業する一方、神奈川県相模原市にフットサルコート「COZISPO(コジスポ)」を設立。ジュニアユースクラブ「FCオルテンシア相模原」やジュニアチーム「FCアロンドラ相模原」を立ち上げて育成年代の指導に情熱を注ぐほか、NPO法人アクティブスポーツの代表として障がい者と健常者が共に楽しむインクルーシブサッカーの普及など社会貢献活動にも尽力している。




鹿児島実業(ヒーロー列伝)

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